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ときどき晴れのくもり空

いつか想像してた未来と今が少し違っていたって

秋の紅茶、夏のガラス瓶

家へ帰ってきて、ひと段落ついて、窓を開けたときに飲みたいなと思うものが、お水やお茶、そしてコーヒーから紅茶に変わると、「秋だな」と思う。

http://instagram.com/p/rwOR6Xr5UL/

My Littel Boxに入っていたTHEODORの紅茶を飲みながら、ぱらぱらと雑誌をめくったりしていると、秋がやっぱりいちばん好きかも、と思えてくる。

温かい紅茶に黄金色の焼き菓子。夏のおあずけだった至福の組み合わせが復活するのも、秋になってからだ。

 

不思議なことに、コーヒーはホットでも夏に飲める。だけど、紅茶に関して言えば、ホットというのは、とてもじゃないけど夏に飲むものじゃないという気がする。

そのせいか、夏の間はがくんと紅茶の消費量が落ち込む。

だから、昨年は、たぶん人生でいちばん紅茶を飲んだ夏だったんじゃないかと思う。

 

それもこれも、水出しもできる紅茶を、恋人とわたしの“真ん中誕生日プレゼント”として共通の友人にもらったのをきっかけに、水出し用のポットを購入したせい。

新しいものが手に入ると面白くなってしまうのはわたしの方で、花びらやらフルーツやらがブレンドされた、見た目にもきれいな茶葉をかたっぱしから放り込んで、水出し紅茶を作った。

ずさんなわたしがぽんっと茶葉を入れておくと、「渋くなるよ」とちょうど良いタイミングで恋人がそれを取りだし、連携プレーでおいしい紅茶にありつける。そういう夏だった。

http://instagram.com/p/rwOUghL5UQ/今年の夏は、あまり自炊しなかったこともあり、優雅に紅茶を水出ししている余裕についても推して知るべし、という感じ。

 

それにしても、冷蔵庫に冷たい飲みものを作って冷やしておく、というのは、なんて“暮らし”という言葉と近い行為なんだろう、と思う。ごはんを作るより、洗濯や片づけをするより、ずっとはっきりと暮らしている実感が湧く。

たぶん、それが余分なことだからだろう。冷たいものが飲みたければ、今やペットボトルの水やお茶を常備していればことは足りるし、その方が楽なのは間違いない。

なのに、わざわざ茶葉を取り出し、飲み物を作るということ。それも、その場で飲むためではなく、今日一日、あるいは明日の朝まで、冷蔵庫を開けば喉が潤うという安心を仕込むためにいそいそと立ち働くということ。

それが、ある風景を思い起こさせる。

http://instagram.com/p/rwOQplr5UJ/子どもの頃、夏が始まる日は、母が台所で麦茶を煮出した日だった。

我が家には、たとえばちびまる子ちゃんの家のように、食後にお茶を入れてくつろぐ習慣はなかったし、たとえばコーヒーや紅茶、ココアでも、かなり小さい時から好きなものを銘々に、というスタイルだった。

基本的には飲み物は各自の自由意思に任され、わたしは夏以外は紅茶ばかり飲んでいたし、妹は水ばかり、母はインスタントコーヒーをひっきりなしにいれ、父はいそいそとビールを、とてんでばらばら。

でも、夏となると、話は別なのだった。

夏の冷蔵庫には、冷たい麦茶が冷えていないといけない、それもたっぷりでないといけない。それ以外の季節、飲み物に関しては放任主義な母が、夏だけはちがった。香ばしい匂いは、家族の匂いなのだった。

 

艶消しのガラスの瓶に入った、何本もの麦茶。あれが暮らしでないなら、いったい何が暮らしていくということなのだろう、と今でも思う。

今年はまた逆戻りしてしまったけれど、ほんとうは、夏には冷たい飲み物を作りたい。来年はもう一度、夏の間も仲良くしよう、と思いながら淹れた紅茶は、うす甘くてすこし薄荷の味がした。