ケチャップ
「人に何かをオススメをする」という行為がするりとできる人は、いったいいつその技術を身に着けたのだろう、というのは、物心ついた頃からこちら、一向に解明できていない謎で、つまり、わたしは人に何かをオススメするのが悲劇的に下手だ。
たとえば面白かった映画の話、おいしかった料理の話、この間知った興味深い知識。
そのどれもが、口からこぼれ出た瞬間からどんどん色あせて行って、半分くらい喋ったころにはむしろ焦っている。なんだなんだ、ちっとも面白く聞こえないぞ、と。
だから、話していることすべてが「いいな」と思えるような喋り方をする人が眩しくて、そういう人の話なら永遠に聴いていられる。
たとえば同じチーズケーキを食べたって、わたしの100倍くらいおいしそうに語る人がすぐ隣にいて、言葉の選び方や、話の流れというもの以上に、「100%おいしい顔」をして語るその姿に、ああこれだと思う。わかっても、とても真似できない、とも。
子どもの頃から、そうだった。
自分が好きなアニメのキャラクターや、芸能人、映画や音楽を、面と向かって「好きだ」「これいいよ」とオススメするのが、どうしても苦手で、誰かの口の端にのぼったところで、「悪くないよね」と相槌を打つのが関の山。
たぶん、わたしは勇敢さが足りないのだと思う。誰かに否定されても、自分がいいと思うものはいいのだ、とシンプルに割り切る勇敢さが。
ケチがつく、という言葉がある。
子どもの頃、わたしはこの言葉が何よりも怖かった。おばけとか、遅刻とか、天涯孤独なんて言葉など太刀打ちできないくらいに。
純粋に語感のせいなのだと思うのだけれど、この言葉が思い浮かぶとき、いつもわたしの頭の中には、ちょうど胸の下あたり、ぴちゃんとトマトの色をしたケチャップのしみが飛んだワンピースの胸元を広げ、ぽつねんと途方に暮れている小さな女の子の姿が浮かんでくる。
たぶん誕生日で、小さな頭に乗せられた王冠も、悲しげに傾いている。おろしたての真っ白なワンピースに、オムライスのケチャップが無情な鮮明さでしみこんでいく。
ああ、取り返しがつかない、と思う。ケチャップはきれいに漂白剤で落とせても、おろしたてのワンピースにケチがついたという事実は、もう取り返しがつかない、と。
好きなものにケチがついてしまったら、もうそれより以前と同じように、心から大好きな状態には戻れないかもしれない、というのはいっそ恐怖で、だからわたしは同じものを好きな人としか、好きなものの話をできずにいた。
その軟弱さは、今も完全には払拭できていないのだけれど、でも少しずつ、勇敢になりつつある。
それもすべて、大人になるにつれ、いろいろなものを好きな人がいる、という事実を知ったからだと思う。
丁寧に説明されても、ちゃんとこちらが理解できているのか怪しいほど、ちょっと、おいそれとは想像もつかないようなものをこよなく愛する人が、「中には」というレベルでなく、存在するということも。
みんないろんなものが好きなんだなあ、という当たり前の発見と、それに対する「お面白いものだなあ」という自分の感想。
それを並べてみて、「なんだ、別に好きなものは好きだと、ただ素直に言えばいいんじゃないの」と拍子抜けした気持ちになったときの憑き物が落ちたような感覚は、いっそ解放という表現に近かったと思う。
というわけで、先日見つけた臆面もなくススメたい、人を選びそうなものをふたつ。
一つ目は『不倫探偵』*1という、なかなか過激な内容のお芝居。
ともかくエログロで、ほぼずっとR18(むしろR20では……)なシーンしかないので、たとえばあらすじを伝えただけで眉を顰めそうな友人も、そう友人の多くないわたしにだって、少なくない数いるのだけれど、これがもう!
今年、これからいろいろと観たとしても、間違いなく最後まで「年間観てよかったTOP3」に入り続けるだろうというくらい面白かった。
全編通して漂う「マンガっぽいマンガ感」、「昭和のアニメ感」、「ハードボイルド小説っぽさ」が、テーマのどうしようもなさをものすごくPOPにしていて、「ああこういう話だな」とわかって尚心底気分が悪い! と思ったシーンが、そこかしこにあったのにもかかわらず、まあともかく面白かった。
ちょこちょこ挟まれる歌謡ショーやダンスシーン、そして高いところにある窓! 小ネタと演出だけでもう面白いのに、全員とんでもない登場人物がこれまたもれなく魅力的で。
なんというか、からあげとハンバーガーとトンカツを、一気にチェリーコークで流し込んだみたいな、ものすごい舞台だった。
松尾スズキさんの渋いオジサマ芝居はもう声がすごかった……。ハリウッド映画の吹き替えかと。ずっと舞台を観て見たかった片桐はいりさんが、大好きな『すいか』と同じちょっととぼけた、でも本人は至って真面目な刑事役というのもうれしく、げらっげら笑ってあっという間の2時間。
それにしても! 二階堂ふみ嬢のかわいさときたら。もうそのかわいさだけで才能なのに、歌って踊って、そして常にピンナップガールみたいなラインで立ったり跳ねたりしていて。
ああ、このキュートさと多才さに頭を殴られる感じはどこかで、と思い返してみると、『いやおうなしに』のときの高畑充希嬢に近い衝撃*2なのだった。最近の若手女優さんは、いったいどうなっちゃってるんでしょう。
ただまあ、わたしは別に過激さは必須ではないので、そろそろエログロのない舞台で、こういう女優さんたちに横っ面叩かれたいなあという気もする。
そしてもうひとつ、人を選ぶかもしれないけれど、オススメしたいもの。
せっかく下北沢に行ったので、mois cafe*3まではじめて足を延ばしてみた。
住宅地の中にある、古民家を改装した一軒家カフェで、駅から5分もかからない場所にある。下北沢という町のにぎやかさが嘘のように閑静な住宅街がぽっと現れ、そのほぼ入口に、これまた突然看板が見えてくる。
たとえばカレーがほわりとやさしい豆のカレーだったり、チーズケーキに添えられている生クリームがちっとも甘くなかったり、だいぶむしむしとする店内、冷房がつく気配もなかったり。
ぱきっとした色鮮やかな喜びを好む人にとっては、たぶん、すこしぼんやりとした感じがすると思う。でも、わたしはとても好きだった。
真昼なのに薄暗い感じも、すこし本を開いてみて諦め、ぼんやりと窓の外を眺める所在のなさも。頬杖をついてぼうっとしていると、ぺたぺたと裸足で歩いていた祖父母の昔の家を思い出す。
表はいつでも明るくて、なかはいつも少しだけ薄暗くて、夏でもひんやりとする木の床。とろとろと眠ってしまいそうな静けさで、呼吸がいつのまにか深くなるような木の匂いがする。誰とでも来たいと言う場所ではなく、そこがとてもいいな、と思った。
何を好きだっていいし、そして何を好きじゃなくったっていい。わたしはずっと、だれかからトマト色が飛んでくるのだと思っていた。でも、たぶん、ワンピースの胸元にケチャップを飛ばせるのは、自分だけなのだ。
そして仮に、目の前の誰かがマスタードをはねさせたりしても、自分で飛ばしたケチャップ以外は、おそらくきっと、消せない染みになったりはしないのだから。