ときどき晴れのくもり空

いつか想像してた未来と今が少し違っていたって

spell

学生最後の年、先に就職していた妹から、珍しく、何でもない日にプレゼントをもらったことがある。もしかしたら誕生日だったのかもしれないけれど、そこのところは詳しく覚えていない。

もらった年だけははっきりと覚えているのは、それが妹にしては珍しいチョイスの贈り物だったからである。淡いブルーにレモンイエローが美しい、小さくて華麗な作りのアルバムだった。

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もともと、誕生日に何かを贈りあう習慣はなかったけれど、お土産や、自分が欲しかったものを買うついでに色違いや香り違いを買ってきてぽんっとあげる、ということならままあって、例からも明らかなように、われわれ姉妹間での譲渡やプレゼントは、圧倒的に服とかコスメの類が多い。

だから、アルバムと言うのは、なかなか珍しい贈り物だった。

確か既にその年、妹は働き始めてほぼ丸1年が経とうとしていて、連日の深夜残業に休日出勤で、それはもう顔を観る暇もない日々が続いていたのだと思う。

しかめっ面しい顔で、雑貨屋のかわいいラッピングごとこちらに放り、「これがすぐに埋まるくらい楽しいことが1年でできるのは、これがきっと最後だから」と遺言のようなメッセージまでくれた。

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実際には休日を駆使して、この2年間もなんやかんやアルバムに飾れる写真を増やしてきたけれど、あの時の妹の厳かな顔と声は不思議な迫力があって、たぶん、わたしが時を切り取ることに敏感になったのは、未だ埋まらないこのアルバムがきっかけだと思う。

 

そういうことを、台風の気配もまだない東京の部屋で、考えた。

3連休の後半、家に引きこもって何をしているかと言うと、本を読み読み、ゲームをしいしい、割合熱心に、よその家のホームビデオを観ている。

実家にあったビデオを一切合財引き上げ、DVDに焼いてプレゼントする手はずを整えている恋人が、作業の合間に流す映像を観ては、吹き出したり懐かしさに身もだえしたりして、とても忙しい。

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恋人とわたしは、ほぼ1歳差でときどき2歳差。

世代的にほぼ完全にかぶるため、小さなサイズのビデオディスク、どう考えても酔っ払う手振れ満載の粗い映像が、そもそもわたしにとっても郷愁を呼び起こす存在である。

その上、画面の中で流れている『おかあさんといっしょ』の歌、お遊戯会のダンスに使われた曲や、画面にうつる女の人たちの来ている服の流行まで、当時は、北と南で遠く離れた場所にいたのに、おどろくほど「見たことのある景色」に一致している。

揺れる画面を見つめながら、なんだかわたしまで、強制的に懐かしくさせられてしまった。

 

一人目・長女の数少ない特権として、わたしは生まれてから1歳ちょっとまでのビデオやアルバムが、月刻みでなくなんなら数日刻みで残っている。

でも、その特権はそう長くは続かず、年子だった妹が生まれてからは、いつもレンズの中、画面の中には、セットではしゃいでいるお揃いの服を着た2人。

そのときそのときによって「決めポーズ」がある妹と、どの時代も芸のないピースで映っているわたし。愛嬌と言うのは天性のものだと、ビデオを観るたび、アルバムをめくるたびにしみじみ思う。

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色々横で覗いたけれど、いちばんおもしろかったのは、卒園式。

ひとりずつ壇上に上がり、誇らしげに将来の抱負を述べるのだけれど、そのいちいちに恋人が入れる「そして現在は」という注釈が、笑ってしまうくらいバラエティに富んでいた。事実は小説より奇なり、とはよく言ったもの。

ホームビデオの中では、知っている人も知らない人も、いつもずっと今より若くて幼い。どの人も等しく“これから”に満ちていて、過ぎてしまった時間よりも、まだまだこれからがあるんだということが眩しくて、ついつい目を細めてしまう。

「未来がある」ということを、目で見る機会はなかなかなくて、だから昔を見ると懐かしさというよりは少し、前向きな気持ちになる。今だって、後から振り返れば、ここからなんでもできる場所にいるんだなあ、と。

写真でも文字でも、iPhoneのビデオでもいいから、と精力的に日々を綴ろうとする癖が自分でも不思議だったけれど、わたしはいつか目を細めるために、今日を記録しておきたいのかもしれない。