あこがれと思い出のごちゃまぜ仕立て
懐かしさついでに、一日に3本もジブリを観た。
夏になると、なんやかんやで毎年『となりのトトロ』*1を観るのだけれど、そろそろその季節は過ぎてしまったので、それ以外を。
つめたい水で洗って食べるもぎたてのとうもころし、草いきれの匂いのしそうな秘密の遊び場、ぜんぶぜんぶあの頃の復習のようで、あまりに何度も観ているせいで、いくつかのオーバーラップする記憶はいっそ、ねつ造のような気がしている。
一本目は、まだ3回目の『紅の豚』。子どもの頃は一切興味を持てなくて、観たのは大人になってからだった。
大学生の時、こぼれそうな眼をした美少女に、「わたしの理想の女性は『紅の豚』のジーナさん」と熱弁され、それはいったいどういう人なんだろう、と20代の最初の年に観たのがはじめてだと記憶している。
3回目にして、はじめて最初から最後までしっかりと観たわたしと、何度も観ているけれどいつも途中からという恋人は、どちらも初見のように楽しんだ。
あのときあの子が憧れていたジーナは、わたしもいっぺんで好きになった。年が近づけば近づくほど唸りたくなるような“いい女”で、わたしの中では、大人の女の人の代名詞なのに変わりはない。たぶん、彼女の年を越えても、きっとそうだろう。*2
二本目は、打って変わってにぎやかな、『千と千尋の神隠し』。三本目は、原作を読んでいたのでもっと観ていた気がする、2回目の『ハウルの動く城』。
三本とも見事にばらばらで、共通しているのは、3点。あまり観たことがないこと、でも作業をしながらなので、一度は観たことがあるもの、そして何より大事なのはさみしくならないこと。
ジブリを観ると、どうしてだかわたしはとてつもなく、さみしくなる。その三大作品は、『耳を澄ませば』と『魔女の宅急便』、それから『となりのトトロ』。
どれもちっとも悲しい話ではないのに、子どもの頃に繰り返し見すぎたせいか、この3作を観るたびに、「もう戻れない」と思う。自分が映ったホームビデオでは、ちっともそんな気持ちにならないのに、これは不思議な現象である。
図書館の貸し出しカードとか、声を合わせて歌う『カントリー・ロード』、大雨の中傘をさして待っているバス停とか、おばあちゃんと過ごす夏休み箒に乗る練習をするように、繰り返し繰り返し自転車に乗ったこと。
子どもの頃、気に入った物語は、飽きるほど繰り返し摂取した。そんなお話の中のひとつひとつの出来事を、なぞるように大人になってきたからかもしれない。
物語の中にはあの頃の「憧れ」が詰まっていて、憧れというのは、振り返ってみると問答無用できゅうっと胸を締め付ける。
それにしても、最近めんどくさくて、DVDもPCで観がちだったけれど、TVの大きな画面で観る水の描写のきれいなこと! 出てくる建物の細部のかわいいこと、画面の端の方でちらちらと動くちいさな生き物の愛らしいこと。
特に、『千と千尋』のラストにかけての一連のシーンの水は美しくて、これも夏に見ればよかったなあ、と来年することのリストに入れておいた。
*1:温泉地に行くとついつい行ってしまうテディベアミュージアム×トトロ展。テディベアミュージアム 伊豆・那須
*2:そして本当にフィオがかわいい! この子は年を取るたびにかわいさが増す。