あわい
毎年、気が付けば過ぎているのが、6月という月かもしれない。だいたいGWの頃に、「ああ、来月は1日も祝日がないのかあ」とがっくりするところまでは覚えているのだけれど、その後の記憶はついぞないことが多い。
だいたいバタバタしている時期だというのもあるし、儲けもののようなお休みがないので、1週間をひたすらコンスタントにこなしている内に、あっという間に1ヵ月が過ぎている。
今年も、なんやかんやで、もう7月も10日が終わってしまった。早いなー。
6月にしたこと……と思い出してみると、恋人が忙しそうだったこともあり、ちょこちょこひとりで遊んだなあという感想。わたしはわたしで、久しぶりにお休みぶっ続けで、ほぼ徹夜をして仕上げたものなんかもあった。
そんな中で、ふわっと夢の中の記憶のように浮かんでくるのが、6月の初めに観に行ったたくさんのあじさい。
子どもの頃、あじさいというのは、いつも出し抜けに咲く花だった。
つい前日まで、そこには何もなかったのに、ある日気づくと、わさっと花弁が開いている。
もちろん、急にその状態になるわけはないのだけれど、「だんだん咲き始めている」という印象はほとんどなくて、いつだって気づいた時にはもう、あじさいはあじさいらしい顔をして咲いているのだった。
だいたい1週間の内、傘を持っていく日の方が多くなったころ、通学路の片隅が急に色づき、そこが花壇だったことを理解する。毎年、それを繰り返していた気がする。
こんなに花が集まって咲いているのに、なんでこんなに静かなんだろう、といつも不思議な気持ちで横を通り過ぎた。なんだかしんとさみしくて、見るとすうすうと心許ない気持ちになり、子どもの頃のわたしは、どちらかというと少し苦手な花だった。
周りの空気が数℃下がるような花は、あじさいくらいなんじゃないかなあ、と思う。
たぶん、それには咲く時期の印象もおおいにあって、記憶の中のあじさいはいつも細かい霧のような雨に濡れている。
いっそじゃぶじゃぶと、長靴の中が水たまりのようになる雨が降る頃には、むしろもうひまわりが咲き始めていたりして、あるいはそんな大雨だと景色に沈んでしまっていて、あまり大雨の中で眺めた記憶はない。
まだ梅雨入りしていないような、きらきらといい天気の土曜日、いっそバラ園に似合う陽気の中訪れたあじさい園で、そこかしこで花開くあじさいを見ようと足を踏み入れた瞬間、しゅわしゅわと細かいミストが吹き荒れて、そんなことを思い出した。
土曜日の昼日中、青から紫、白から薄紅色。さまざまな色のあじさいがあふれ、それと同じくらい人がたくさんいるにもかかわらず、しんと静かな空気は損なわれていなくて、さすがだなあと。
あじさいと言えば薄淡い紫だという気がして、やはりそういうのを見つけるとうれしくなってしまうのだけれど、少し紫がかった青がとてもきれいで、このあじさいならさみしくないなあと写真を撮ってみたり。
紫と言う色は不思議だ。濃ければ艶めかしく、したたるような色っぽさがあるのに、薄くなるととたんにはかなげな雰囲気になってしまう。
濃かったとしても、少しでも墨が混ざると、急に渋味が出てしまうのも不思議。
淡くさびしげな薄紫のあじさいは、6月という月のイメージにあまりにふさわしくて、祝日のない怒涛の1ヵ月という印象とあいまって、なんだかさみしく苦手な花だった。
でも、太陽の下で見た色とりどりのあじさいは、清楚さとひっそりと静かなところはそのままに、さみしさは感じないのびやかさ。
ひそやかなのと、さびしいのとは違う。それがわかれば、涼やかでいい花だった。
梅雨を通り越して、夏の匂いのする金魚すくいの釣り堀に、「さんさん」と音が聞こえてきそうな絶好調の太陽。
気付けばするりとひそやかに過ぎてしまう、GWと夏休みの間の1ヵ月。今年も特に主張することもなく気付けば終わっていたけれど、でも、この1ヵ月で片付いたことはたくさんあったなあ、と思う。
ひそやかに、でも、実はたくさんの花の咲いた月だった。
他の月には食べない和菓子を食べたり、ソフトクリームを待っている間に、思わず声が裏がってしまうようなうれしい電話が入ったり。
あじさいを見てさみしくなかったのは、今年がはじめて。毎年、記憶が曖昧な6月だけれど、今年は少し淡い色がついた気がする。
正直まだ心の底から、あじさいを好きだなあと思えていないのだけれど、あじさいを心の底からきれいだなあと思えたら、そのときには、6月という月も心から好きになれるだろう。
大人になりたいものだなあ、と思いながら、わたしはまだ、ぱきっとした原色の夏をたのしみにしている。