ときどき晴れのくもり空

いつか想像してた未来と今が少し違っていたって

グッバイ、サマー

おやすみである。

もっとも、すべてカレンダー通りだけれど、でもこの昂揚感は何物にも代えがたい。3連休という言葉に浮かれて、久しぶりに日常を振り返りたくもなる。

日記をつけそびれている間に、すっかり夏が終わってしまった。

今週末は秋を感じに、昨年も訪れたもみじ市に行ったのだけれど、思いのほかいい天気でむしろ夏の最後を堪能する一日に。

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昨年はブーツを履いて行ったりしたので、てっきりもっともっと先の話だと思っていたら、先週末急に恋人が「来週末の予定」を発表してびっくりした。調べてみると2015年はもう一週間後だったみたい。

それにしても、一週間後にブーツを履ける気がまったくしないので、今年はなんだかずるずると暑い日が続いているようだ。夜はまだクーラーもつけているし。消して寝て、明け方に起きて、翌日はつけるというのを繰り返している。

足元だってまだまだサンダルが快適な温度だ。

起きると、雨予報が嘘みたいにきれいな快晴。ほとんどパン道楽のためなので、今年はちょっとがんばって早起きして家を出る。

昨年は雨予報がもっと深刻で、室内で開催されていたから、ほんとうに多摩川でやっているもみじ市に遊びに行くのははじめて。リュックを背負って、日焼け止めもしっかり塗って多摩川へ。

今年のテーマは「FLOWER」ということで、去年の秋祭りっぽさと比べて、なんだか会場もだいぶ春や夏っぽい。

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入口のテントも、白と青が目にさわやかで、既にうきうき。

深呼吸すると、ダイレクトに草の匂いや土の匂いが流れ込む。明け方少し雨が降ったのか、少し青っぽい匂いが立ち上っていて、それだけでもうこのおでかけの元が取れたみたいに心躍った。

空はぴかぴかに晴れていて、ときどき吹く風だけが秋の匂いがする。

昨年はほとんど売り切れていて買えなかったパンめぐりをして、着いてすぐに満足してしまった。

その間、クレープ屋さんに並んでくれていた恋人の元に戻ってもまたお昼前。列に並んでいると、じりじりと髪の毛が焼ける音がして、あまり好きではない日傘を持ってこなかったことを悔やむくらいのいい天気だ。

遊園地に行ったときと同じ要領で、だらだらと意味のない話をしながら、並んで待つ。ただ、10分もそうしていると、空腹と暑さに負けそうになり、食べながら待つことに。

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昨年食べておいしかったソーセージを見つけて、今年は「うずまきちゃんセット」を。

ふだんであれば絶対、限定の「もみじまきちゃん」を頼んでいたと思うのだけれど、ずらっと並んでいるスモークチキンがあまりにおいしそうで! 期待にたがわず、ソーセージの「うずまきちゃん」もスモークチキンも存分にしあわせなおでかけの味がした。

だいたいソーセージという食べ物は、ほぼ自宅の冷蔵庫には入れておいたことがないのにもかかわらず、なぜか屋外で見かけると他の好物に先んじて手が伸びてしまうふしぎな魅力がある。

ソーセージには、風と太陽の匂いがよく似合う。だから、映画館で売られているホットドッグなんかには、それほど強く心惹かれないで済むのだけれど。

そして、ソーセージときたら、飲み物はもうこれしかない。あまりの暑さもあいまって、午前中からビール!

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これがまた、すごくおいしかったー! はちみつ味がくっきりとして、ぜんぜん苦くないフルーティーな1杯。ビールというよりはビールカクテルみたいなやわらかな味がする。ビール嫌いな友人にすすめたくなるマイルドさ。

そしてよくよく考えてみると、ビールもまた、室内ではちっとも飲みたくならないのに、戸外では「どうしてもそれじゃなくちゃ困る」類の飲み物なのだった。

ところで、このビールはオーダーの仕方がとてもかわいくて、レジでお会計をするとこうして目印が手渡される。

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いろんなところにテーマである「FLOWER」が仕込まれていて、それが目にうれしい。

 

並んでソーセージとチキンを食べ、ごくごくとビールを飲んでいる間に、列は少しずつ少しずつ進んでいく。少しずつ人が増えてきて、なんだろうと思ったら後ろの方から陽気な音楽が聞こえ始める。

のどかな休日。

ちょうど前日に『ぶどうのなみだ』という映画を見返した後だったので、なんだか映画の世界の中に入った気分だ。音楽とお酒と緑。わたしは家でひたすらだらだらする週末こそが至高だと思っているタイプだけれど、でも年に数回はこういう休日が恋しくなる。

思いついたときに行ける海がとても少ない分、思いついたらすぐに行ける公園と川辺がたくさんあるのが、東京のいいところだと思う。

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念願のクレープを片手に、あまりの暑さに追加したソーダを舐めながら、ぐるっと会場を回る。秋の香りがするぶどうのソーダ。

『ぶどうのなみだ』を観た後なので、ついついぶどうのものに目が行ってしまう。

それから夏の名残のグレープフルーツとキウイのソーダ。

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どちらも渇いたからだをするすると満たす、おいしくさわやかな炭酸だった。

ぐるりと周遊し、最後に昨年もおみやげを買ったせっけん屋さんに寄って、今年のせっけんを購入して2時過ぎには会場を後にする。

ずいぶんと太陽を浴びて、元気になった反面、その強さにちょっとぐったり。帰りの電車ではうつらうつら眠って、家に帰ったら冷たいシャワーを浴びた。

なんだかやっぱり、最後の夏休みみたいだった一日。

今年の夏はこれでおしまいかなと思うと、とたんに2016年の夏もいい夏だった気がした。グッバイ、サマー。また来年。

 

夏色ソーダ水

食べ物だけでなく、今年は飲み物も夏をはじめるのが、例年になく早い。

ある日、ヨーグルトに入れるのかと思っていたフルーツが、軒並みジャーに入って出て来たのがそのきっかけだった。

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たくさんのベリーに、甘みの強いオレンジ。

すっきりした辛口のサイダーに節度なくどぼどぼと入れて、太めのストローが添えられて出て来たジャーは、片手で持てないほど重い。

思いがけず出て来たそれを片手に、だらだらとソファーに寝っころがる休日が3月の終わりにはあったようで、振り返ってみるともう3か月も前か……と不思議な気分だ。

午前中に用事を済ませて、午後2時にはヒールで歩き回って疲れた脚をコーナーソファーに伸ばして、だらだらと海外ドラマを観るというのは、外に遊びに行きたいし、でも家でゆっくりしたいという相反する要望を一気に叶えるいちばんいいスケジュール。

この夏はそのお供に、夏らしい飲み物が追加されるなら、さらに夢のスケジュールになる。

すぐに飲み干してしまいそうなのを少し我慢して待っていると、だんだんベリーの色がソーダ水にうつり、下から順にきれいな赤に染まり始めて、ガラスの中身はどんどんトロピカルに。

だいたいわたしは夏がたいして得意でもないのに(それを言うと、冬もあまり得意ではないけれど)、夏にまつわるあれこれには、一年中焦がれて過ごしている気がする。

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これでサングリアを作ったら美味しいだろうなあ、と思いながらソーダ水をぶくぶく言わせて、翌日には実際にソーダを白ワインに変えた。ワイン自体が甘かったので、サングリアの方はとろとろと甘い出来に。

それにしても、ソファーが来て以来、その上でばかり過ごしている。

座ってお酒を飲みながら映画を観ていたら、いつのまにかうつらうつらしていて、体にはよくないとわかりつつ、そのままごろんと眠ってしまった後、目覚めてここはベッドじゃないと思うのも幸福だ。

最初は、ソファーの色が間違っていたショックを緩和するために、たくさん置き始めたクッションだけれど、今は単純にそこに埋もれているのが気持ちよくて、外せずにいる。

今週末は、映画をいくつか流した後、何かきちんと観たいなあと途中まで観て中断していた『SUITS』を再び観始めて、オフィスのシーンでやたらとみんなソファーに座るので、ますます腰を上げがたい。 

Season4に入って物語が大きく動き、自動再生が止められない面白さ。永遠に流してしまいそう。

GWに別の作品で同じような状況になったとき、「本当に見ていますか?」とTVに訊かれたので、それはさすがに避けたいのだけれど。

タイトルは『SUITS』なものの、スーツを着ていない女性陣の装いがとても素敵で、それも楽しみに見ている。膝丈のタイトというのが結局いちばんセクシーだなあ、とマイシーン目の保養に。

1話の中で全員が何度も衣装チェンジするのも楽しい。

 

たしか前回観ていたときには、残っていたベリーだけ散らして、もう少し涼しげな1杯をお供にした。

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今のブログの背景にもしているように、青と赤が混じる狭間というのが、わたしはとても好きだ。

夕暮れの一歩手前、あるいは半歩後ろかもしれない。あの昼と夜の間の空なら、ずっと眺めていられる。

たぷんと水の中に閉じ込められたような曖昧さが心地よくて、あの瞬間だけは、どこまででも歩いて行かれそうな気がする。履いているのが、たとえ8cmのピンヒールでも。

それをグラスの中に閉じ込めたような初夏のソーダ水は、ぴりりと唇に冷たく、清らかに甘い。

何かに似ているな、と思ったらそれは浴衣の配色にも近しくて、先走りして夏をはじめた今年なら、東京の人ごみの中でも、はじめて浴衣を着てみてもいいなあ、なんてことにまで、思いを馳せたり。

春らしいことがあまりできなかった分、夏っぽいことはたくさんした一年にしたいなあ。

後いくつ寝ると、7月がやってくる。

 

空色の、湯呑みじゃないもの

夏はじめと言えば、今年最初に食卓におそうめんが登場したのは、例年に比べてずいぶんと早い3月21日だったらしい。写真フォルダを遡っても遡っても現れないので、びっくりした。

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先ほどの話ではないけれど、子どもの頃、おそうめんはお蕎麦よりももっと美味しさがわからなかった麺類で、実は未だに積極的に食べたいとは思えずにいる。

一方で恋人は、パスタの代わりにおそうめんばかり茹でていたという、わたしにとっては奇特なひとり暮らし生活を送っていた人なので、ここ数年、ようやく家でおそうめんを食べるという習慣が復活した。

まあその、おいしいかどうかは置いておいて、涼やかではある。

というわけで、少しだけ日差しの温かさが増した春先に、既に今年はおそうめんはじめを済ませてしまった。

もっとも、それだけ日程が繰り上がったのには、わたしの方もいつになく積極的に「そんな昼食もいいですね」と今年は早々と思えたからでもあり、その理由はといえば、味や喉越しではなかったりする。

湯呑みと間違えて買った、空色の蕎麦猪口。これが使いたくて、わたしはわたしでいそいそとお湯を沸かした。

中川政七商店(中川政七商店公式通販サイト)でふらりと手に取った蕎麦猪口がどうして湯呑みに見えたのか、今となってはさっぱりわからないのだけれど、思い返してみると、たしか、急須といっしょにディスプレイされていたのだ。

それからたぶん、わたしはそこそこ疲れていたのだろう。こういう滋養のある器でゆっくりお茶が飲めるといいなあ、と思った。

これでお水を飲んでもおいしいだろうなあ、とも考えた。この夏は、たとえなかなか青空の下で過ごせなくても、せめて毎日、空色の器でごくごく水を飲もう、と。

そういうわけで衝動的に購入し、家で箱を開けてみたときにはじめて「あっ」と勘違いに気付いたわけだけれど、そのおかげで、今年はおそうめんが例年よりも少し美味しい。

 

もっとも今のところは俄然、お猪口というよりは使い勝手のいい小鉢としての使用方法の方が多くて、あながち間違って買っても悪くなかった気がしている。

ぜったいに綺麗だな、と思ってすき焼きの晩には、卵を割って。

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溶いた後も綺麗だけれど、割り入れた直後は、ほんとうに食卓に青空が切り取られたよう。この使い方は気に入って、既に何度かやっている。

他には、たっぷりしらすを盛ってみたり、小さな冷奴をそっと作ってみたり。

なんとなく白っぽいものを入れたくなるのだけれど、ネギをたっぷりのっけた納豆なんかを入れてもいい。

これまで持っていた小鉢が、写真の右上にあるように、きゅっと丸みを帯びたものだったので、すっきりした形が珍しくてついつい手が伸びる。とはいえ、気に入ったものほどすぐ割る性質なので、ほんとうは戸棚の奥にしまっておきたいくらい。

ただ、食器に関しては使ってなんぼと割り切って、がんがんお気に入りのものから使うことにしている。

そういえば、あの冬の朝割って以来、すごく気に入るものがないので、お茶碗を新調しそびれているけれど、それもまた一興。

どちらかというと、同じものを買い直したいという気持ちが強くて、次に帰省したときにもう一度お店を覗いてみようと思っている。

これも割れたら悲しいなあとか、今の時点でどこのものかわからないので、同じものを買い直すのは難しそうだなあと考えを巡らせながらも、じゃんじゃん登板させていて、最近ではポテトサラダまでこちらに盛る始末。

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結局、これでお茶を飲むことはなさそうだけれど、勘違いして買ったことを僥倖だと思うくらいには重宝している日々だ。

一品料理でどかん、と食事を済ませがちなわたしが、細々とほうれん草を茹でたり、にんじんを千切りにしてみたりと、余分なひと手間をかけて野菜を摂っているのは、ひとえにこの器を使いたいからで、自分の単純さに笑ってしまう。

野菜と麺好きの恋人は、特に不満はないようだけれど。

もうひとつ、すりガラスのものも、こちらはきちんと蕎麦猪口だとわかって手に入れていて、それはもっと本格的に夏になってからかな、とまだ棚の中で眠らせている。

どうやら今年は、クーラーではなく扇風機をかけて、空色のお猪口でつるつると麺を啜るという、なんだか子どもの頃に時を戻したような夏になりそうだ。 それはそれで、とても楽しみである。

 

 

ベストコスメをひとつずつ

ストレス発散のようにお買い物をしてはいけません、とは思っているのだけれど、ついつい忙しいとお財布のひもが緩む。というわけで、この春の散財備忘録。

ベストセラーという言葉に、胸が高鳴る人と、伸ばしかけた手が引っ込んでしまう人とがいるとすれば、わたしは断然、後者である。

それが本でも、服でも、コスメでもそう。「あ、みなさんお好きなんですね、じゃあ何もここでわたしが買わなくても……」という気持ちになる。

それに、人と違うものを選ぶのは、みんなと同じものを選ぶよりも、ずっと気楽で身軽だ。

でも最近、やっぱり「みんなが選ぶもの」というのには理由があるんだなあ、とその良さに、しみじみランキングを見直してしまったものがあった。

それが両方コスメだったのは、たまたまだと思う。特に必要に差し迫っていたというわけでもないし。ただ、ちょっとだけ気持ちが明るくなる実用性のある散財として、コスメというのはきっと、ちょうどいい贅沢さとお手頃さなんだと思う。

 

ひとつ目は、定番×季節限定という最高に心躍るタッグ。

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久しぶりに期間限定のアイテムを購入した、Diorのリップマキシマイザー。#004 sweet lilacで、たしか発売から少し遅れた春先に手に入れたはず。

春にピンクじゃなくてライラックというのがいいなあ! とまだ冬だった頃に雑誌で見て気になったまま、しばらく忘れていたのだけれど、実際に風が春の匂いをはらんでくると急に思い出してそわそわとした。

とはいえ、なかなかカウンターに行く時間もなく、伊勢丹onlineで在庫が復活しているのを見つけて、迷わずぽちっと。

マキシマイザー自体は、以前から気になっていたアイテムで、いつだか、たまたま同じタイミングで帰省していた保湿マニアの妹にも、かなり強烈にオススメされた。

とはいえ、最近あまりグロス系の質感が得意じゃないことと、何より、「ベストコスメ」という響きに日和って、避けて通っていた。

のだけれども。

使ってみればまあ、それはもう、たしかにベストはベストなのだった。

使い方として正しいのかはわからないけれど、朝、全部メイクが終わった後に鏡の前で素の唇にこれだけ塗り、職場に着いたら、少し濃い色の口紅を塗るのが個人的にはいちばんしっくりくる。

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見たとおりのきれいな淡いパープルが、唇に乗せると少しだけ口元をミルキーに変え、ほとんど色はつかないので、たぶんどんな口紅の上からでも、グロス代わりに使えると思う。

べたべたというよりはつるっとした質感で、ぱんっと唇が張るので、すーすーとするミントの香りとあいまって、朝目覚めの1本という感じで、わたしは先にこちらを使うのが好きだけれど。

少し時間を置いて濃い色を上からのっけると、ちょうどよくその強さが緩和されて、疲れと程遠いつややかな口元が出来上がる。

口紅→グロスの順で身に着けるよりも、少し自然なぷるっと感で、朝、きちんと唇を整えれば、夕方までごはんを食べる時間すらなくても、ちっとも疲れた顔にならない。

平日の朝、ずっと手を伸ばしていたら、もはやラスト1/4を残すばかりになっていて、もう1本ストックしておけばよかったなあと今更焦っているところ。

次の限定カラーが出たら、それを買い足そうかなあ。

 

そして、もう一つの「はじめてのベストコスメ」は、アイシャドウパレット。

こちらは今年のお正月、母が持っていたものを試して、やっぱりいいなあと唸り、出張先にアイシャドウを忘れたことを口実に、自分でも同じものを買い求めた。

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ルナソルのスキンモデリングアイズ#01 Beige Beige。定番も定番、ベストコスメの永遠の常連。

水彩パレットのような色とりどりのものをエスティーローダーで手に入れてからは、新しく買い足すのが、なんやかんやでブラウン系のパレットばかりになりつつある。

オレンジっぽい色味のものなんかも使ってみたけれど、ものすごくスタンダードなベージュが欲しくて、それならやっぱりこれしかないな、と。

わたしが長年色っぽいなあと思っていた世の女性の瞼の濡れた陰影は、ほぼこれで作られているのでは……! と言うくらい理想的な、大人の女性のためのベージュパレットだった。

最後、左下の〆色を使うまではいっそ不安になるくらいささやかな色付き。

けれど、そのすっぴんを全力できれいに整えるという趣が好きで、最近アイシャドウで目元を〆ることにこだわらなくなったのをいいことに、最後の1色をスキップしてマスカラに進むことも多々ある。

左上だけラメが少し大きいので、これだけ抜くとそれそれでまた、しっとりとした違ったテンションで仕上がる。

なんということはないけれど綺麗で、どこに行っても誰に会っても恥ずかしくない。

その清潔感のおかげで、唇の色をコンサバにしなくてもきちんとオフィス仕様のメイクに見えるから偉大である。

https://www.instagram.com/p/BExPf_2r5Zw/

そういえばこれを買ったのも、大阪のイセタンミラーだったなあ。コスメのお買いものは最近、伊勢丹づいているみたいだ。

 

自分だけの定番を探す旅もいいけれど、みんなの定番と言うのはつまり既に「昔ながらの名品」だったり、ゆくゆくはそうなっていくわけで。

そういうものをひとつずつ揃えていくのもまた、大人になっていく愉しみだという気がしている。

次はゲランのラディアントタッチかなあ、と狙って早2か月ほどが経った。別にいつ買ってもいいのだけれど、そこが定番の難しいところで、今でも明日でもたぶん来年でも、苦も無く手に入るものだと思うとかえって手が出なくなるからふしぎだ。

もしかすると、だけれど。

そろそろうっかり出張のときに、コンシーラーを忘れて家を出るべきなのかもしれない。

 

 

夏はじめのすいか違い

なんやかんやしていたら、77日ぶりになってしまった。もはや、梅雨。

最近、朝起きてカーテンを開けるのが、どちらかというと占いじみた習慣になっている。

今日は星座占いなら6位くらい、という微妙な結果。さくさく午前中から午後一にかけて用事を済ませて、薄曇りの午後は、コーヒーのお供にバナナマフィンを。

https://www.instagram.com/p/BHEhgg_Alwo/

このお皿も、ものすごく久しぶりに使った。

さてさて。

日本にも世界にもいろいろなことがあって、ささやかなわたしの人生にもさまざまなことがあって、あわあわしたり、ぐったりしたりしている内にこんな季節に。

もちろん、しあわせなことも楽しいことも様々あった77日間だけれど、それも含めていろいろとあり過ぎた。とにもかくにも、穏やかな日々を願うばかり。

たくさん考えて動き回る人生もいいけれど、なんにも考えずにぽけーっと目覚められる土曜の朝がふんだんにある人生はもっといいなあ、と思う。今日は、久しぶりにそんな土曜日。

……と思って過去の日記を見返してみたら、毎年6月には、ほぼ同じことを言っていた。そして常に、これから更に忙しくなる夏に怯えている。なんともまあ、進歩がないと言うか、なんというか。

春を感じたのは、蕗を食べた夕食くらいだった。

そんなこんなで、この6月最後の週は、ちょうど一休みという感じでぽっかりと暇になっているのも毎年同じで、だらだらと夏のおやつを嗜んでいる。

https://www.instagram.com/p/BHEZlHcA-ms/

今年の夏はじめてのすいかは、先日、深夜のお酒の席で食べた。ウイスキーだの日本酒だので濁った体に、たしかにその冷たさは嬉しかったのだけれど、昼の縁側で食べたい果物を夜中に食べたのが少し悔しかった。

それで、今日のおやつは、今年最初のすいかバー。やけに長いな、と思ったらBIGサイズだった。

昔から、ときどき食べるなつかしのアイス。とはいえ、アイスでまで求めているほどすいかのことが好きだったわけではない。

と言うよりも、断然、すいかよりもメロン派だった。

くっきりした赤色なのに、その色を裏切るようにぼんやりとした味がして、飛ばす庭がないと扱いに困る種が、メロンとちがって全体にばらばらと入っているのも煩わしかった。

でも、その曖昧さがむしろ大人っぽく思えて、心の底からおいしいと思えるようになりたいなあ、とまずはアイスから攻略しようとして、夏になるとついつい、手が伸びる1本。

曖昧なものというのは、なんだか大人っぽい。たとえばメロンよりすいか。あるいは、おうどんよりお蕎麦。りんごよりも梨。お味噌汁よりも、お吸い物。

だんだんほんとうに後者の方が好きになってきて、ようやく少しずつ大人になった実感がわきつつあるけれど、すいかはまだ、本気で好きなのはドラマとすいかバーくらい。

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しっかり焼きこまれたDEAN&DELUCAのバナナマフィンを少しずついただきつつ、映画『めがね』を久々に見ていたら、そろそろこのドラマの時期だなあと気づき、いてもたってもいられなくなって数話立て続けに流している。

そろそろ焼き菓子も重たくなってくる季節だけれど、今日は涼しいので、濃く入れた熱いコーヒーも美味しい。

薄曇りをクッションの形に固めたようなふわふわの塊を抱きながら観る『すいか』は、毎年夏が始まる週末にかけている、こちらも、わたしの定番の1本。

こういう毎年のお約束は、悪くないなあと思う。

 

数日前、ペールブルーのサマーブランケットを出した。さらりと肌に心地良い生地が、何度もの洗濯を経て、少しくたりとなっている。その分、昨年よりも肌に親しくて、より気持ちいい。

このブランケットを手に入れる前は、しょっちゅう掛布団を蹴り落としていた夏の夜だけれど、これはずっとくるまっていたいくらい。

夏が来ればまたあれがある、と思うこと自体がとても心楽しい。

そんな中、今年の夏はじめて登場して、きっと来年からは夏を少し懐かしくさせる強力なアイテムになりそうなのは、譲り受けた扇風機である。

こじんまりとしたサイズと、おばあちゃん家にありそうな古めかしさが嘘のように、意外に精力的に部屋の空気を冷やす頼もしい機械。

今週はブランケットを夏用に変え、15年ぶりくらいに家で扇風機のボタンを入れ、週末にはこの夏はじめてのすいかまみれになった。

来年の6月末、この日記を見返して、同じことを同じくらい健やかな気持ちでできているといいいなあ。わたしのささやかな夏はじめ。

No Place Like HOME

久しぶりに、心底、家でまったりしている土曜日。

3月は遊び歩いたわー、と自分で自分に感心していたら、感慨を覚える隙もなく、4月最初のお休みも、ばたばたとしたものになった。

だから、この土曜日をほんとうに楽しみにしていた。

今日はだらだらしよう! と張り切って朝7時には目を覚ます始末。何かが矛盾している。

洗濯物や片付けを終えた後は、日に日に快適になるリビングの一角、もはやなかったときのことが思い出せないソファーに寝転がって、ぱらぱらと雑誌をめくる午後。

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痩せ細った2月号の後の、たっぷりとはしゃいだ厚さのある3月号・4月号がとても好き。

疲れたというのを言い訳に、またしても大きなクッションを買ったので、雑誌を含めて、読書をするが、俄然、とても快適である。

黄色いクッションは、たまたま入ったB-COMPANYで見つけたもの。ふだんならこのサイズのものに、この色は選ばないけれど、どうやら心底疲れていたらしく、気づいた時にはお会計をして抱えていた。

ソファーを買ったことが免罪符になり、どんどんクッションが増えている。念願の「埋もれるように座る日」も近そうだ。

それにしても、心の友・メディキュットを履くことすら、ずいぶんと久しぶりで驚く。脚のマッサージなど、夢のまた夢……。

ソファに脚を伸ばして座るのも久方ぶりだし、最後に珈琲を豆から淹れたのも、いつだろうと目を細めてしまうレベルだ。

実際には、半月かそこらの「久しぶり」なのだろうけれど、なんだか濃い1か月で、振り返るのも億劫になるくらい。

https://www.instagram.com/p/BD9-LPmL5Qa/

晩ごはんの買い出しに寄ったスーパーで、期せずして見つけた、チェブラーシカコラボの小枝をお供に、のんびりのんびりしている。

ちなみに、この下に敷いているのが、更に少し前に我が家にやってきたクッションで、こちらはいわゆる「人をダメにするクッション」。

枕にすると、ずもももも……と、どこまでも頭を包み込んでくれて、宇宙にいるみたいな軽やかさになる。

マイクロビーズのクッションを最初に知ったのは、たぶん中学生のときで、真っ赤なバーバパパの形のそれを、わたしはずいぶんと長い間、大事に使っていた。

その後に買ったさまざまなクッションは、軒並み、やってきたわんこの寝床にされたけれど、ビーズクッションだけは、「噛んでバラバラにしてしまったら危ないから」という理由で、ずっとわたしのもののままだった。

本を読むときに抱えるのがいちばん好きで、だらだらするときのいいお供だったことを覚えている。

わたしは、ほぼ家で宿題をしない子どもだったのだけれど(授業中にやっていた)、たまに持ち帰ったときは、しっかり抱え込んで、つらつらと目の前の問題を解いた。

いつ手放したのかはもう思い出せなくて、そういうものがこのクッションだけではなくて、たくさんある。

 

そういうことを忘れたくなくて、こうして大人になってからは、日記に書き残しているのかもしれない。

というわけで、新しいクッションを手に入れてから、そして、ソファーが来てから、いいことが既にたくさんあった。

でも、一番の効用は、疲れていてもベッドに直行することがなくなったことかなあ……。

「間取り? 寝室さえあればいいです」と不動産屋さんで即答していたのが、嘘のよう。当時の自分を殴ってやりたい。

今は広いリビングのない部屋など考えられないし、リビングがあるなら、ソファーが欲しい。

寝落ちしながら、今更、『ST 赤と白の捜査ファイル』をhuluでさくさく見たり(ようやく半分)、『臨床犯罪学者 火村英生の推理』を番外編まで含めて、せっせと流したり。

火村シリーズは昔全部読んで、面白いほどすっきりと全部忘れていたので、ひとまず何か1冊と思って、『スウェーデン館の謎』を買ったりもした。 

昔持っていたのとは違うもので、とこちらのver.を購入。

そんなこんなで、珍しくドラマ付いていた日々で後回しになっていた、『昭和元禄落語心中』の録画一式や、新アニメの1回目を永遠に再生し続けながら、今は、とろとろと日が落ちるのを待っている。

晩ごはんは、延ばし延ばしになっていたお祝い事があるので、久しぶりにすき焼き。久しぶりに苺のショートケーキなんてものも買った。

買い出しのために表に出ると、春らしく風が強い、きれいなきれいな晴れ。

ふしぎなことに、3月の空とも5月の空とも、やっぱり違う色合いをしていて、1週間もない「快適な4月」をのびやかな気持ちで堪能している。

遊びまわるのもいいけれど、やっぱりこうしている日がないと、電池切れしてしまうみたいだ。

雪と、夜と、氷と

これまで、冬をすこし好きになるのは、たいてい、その中でほんの少し、温かさを見つけることができたときだった。

たとえば、びゅうびゅう風の吹く休日の外出で、その音も遮断するような、もふもふのイヤーマフを買ったとき。

あるいは、熱いカフェラテのテイクアウトカップで、両手の指先を温める帰り道。

駅に着くまで口をつけるのを我慢して、その我慢の分だけ、すこし冬と言う季節が好ましく思える。

熱い夏の日、すかっとする冷たさと出会ったときに感じるのが、一種、脊髄反射に近い快感だとすれば、凍える冬の日、温かさに心がほどけていく感覚はずっと、理性的なものだ。

耳たぶや指先から、じわじわと体中に温度が広がっていくにつれ、ゆっくりと理解する「しあわせ」。

 

だから、今年の冬、いちばん冬を好きだと思った瞬間が、まさに雪と氷のど真ん中に佇んでいた午後7時だったというのが、とても不思議な気がしている。

https://www.instagram.com/p/BBwAhomL5cd/

数年越しに、一度観て見たかった氷のお祭りを体験しに、はるばる北の大地まで行ってきた。

 

毎年、支笏湖で行われる氷濤まつり*1は、1月の終わりから2月の下旬まで、約1か月続くふしぎなお祭りだ。

何がふしぎって、ともかく、しーんとしているのである。

周りには、屋台もお店もほとんどなく、そんなしんと静かな雪の中に、突如として、ぽわんと光が現れる。

暖色寒色が取り混ぜられた、色とりどりの灯り。

にぎやかなのに、人も目視できるくらいにしっかりいるみたいなのに、なぜだか人の気配がまったくしない静けさがある。

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それも、最初お祭りの会場が見つかるロケーションだと、かなり高みから見下ろす形なので、なんだかクレヨン王国を見つけた巨人のような気持ちになる。

だいたい、わたしはあの表紙の絵が大人っぽくて苦手な、軟弱な子どもだった上に、あの絵を「きれいだ」と思えるようになったときには、今更、青い鳥文庫も……という年齢になっていたので、しっかり読んだ記憶がないにもかかわらず。

クレヨン王国だ、と。

 

おそらくそれは、現在、再放送されているアニメを、生まれてはじめて見たせいかもしれない。

我が家のTVは、「新」と付くものを、とりあえずやたらめったら録画する仕組みになっているのだけれど、この間、膨大な録画番組の中で、『クレヨン王国』の名前を見つけて、わたしはおおいに驚いた。

その番組名で、リモコンを繰る手を止めた瞬間、「懐かしい!」と「これアニメになってたの!?」という声が、見事にハモって。

どうやら、わたしより少し下の世代にとっては、たとえば『おジャ魔女ドレミ』くらいには、「一度は見たことがある」というものらしく。

セーラームーン』のように、作中に出てくるアイテムをおもちゃ屋さんでねだったものだという。

わたしはそんなことをつゆ知らず、いっしょに叫んだ相手は、原作が意外に大人びた挿絵の本だとは知らないまま大きくなったそうで、たいして年は違わないのに、と思うとそのすれ違いっぷりが面白かったことを覚えている。

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おもちゃのような、桃源郷のような、箱庭のような。

そんな、ぎゅっと閉じ込められた灯りを目指して、さふさふとほとんど足跡の付いていない雪道を歩く。

上からしっかり全貌が見える場所から、まっすぐ下へは下りられない仕組みになっていて、ぐるりと迂回して、何度もカーブを曲がりながら、ゆるゆるとその場所へ近づく道筋が付けられているのだった。

人も少なく、会場までの道なり、特に誘導灯のようなものがあるわけではなく、上を見上げると、するすると伸びた木の間に、くっきりとした彩度で、星と月が浮かんでいる。

こういう誰もが寝静まったような雪の夜を知っている、と思ったら、それもまた、幼い頃に少しだけ読んだ物語の一説なのだった。

 

『月夜のみみずく』は、たしか何かの国語の教材に載っていたお話。

月夜のみみずく

月夜のみみずく

 

4月、国語の教科書が配られたら、まず最初に1冊通して読むことから新年度を始めるタイプで、だから、参考書や塾は嫌いだったけれど、国語の教材が増えていくことだけは楽しみだった。

わたしが小学校4年生の頃、なぜか、妹とわたしの中で、「真夜中に起きる」という遊びが流行ったことがあった。

遊びと言っても、実際に何をすると言うわけではなく、何時にもう一度起きる、と決めて、なんならアラームをかけて、真夜中、両親の寝静まった時刻に、そろって目を覚ますだけの遊びである。

もっとも、妹はわたしに輪をかけてねぼすけだったため、実際に、この遊びが達成されたことはほぼなかったことを覚えている。

そんな中、わたしは何度か、ひとりでひとまず起きるところまでは成功し、つついてもつついても天下泰平な顔で眠っている妹の横で、諦めてひとり、月明かりの中、図書館で借りて来た本をめくったりしていた。

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その遊びが、ややブームを過ぎつつあったころ、ある寒い晩、そうと決めたわけではないのに、なぜかむくりと朝の4時に、ふたりして目が覚めたことがあった。

朝の4時。

子どもにとっては、夜からも朝からも永遠のように遠い、果てしなく静かな時間帯だった。

あまりの静けさに、何を思ったのか、わたしは妹に「まずは勉強をしよう」と厳かに言い渡した。

時刻の魔法だろう。なぜか妹も神妙な顔でうなずいて、ふたり並んで、出窓の下に据えられた勉強机に向かい、もくもくと問題を解き始めた。

そのとき、解いていた国語の問題の素材が、『月夜のみみずく』だったわけである。

誰もが寝静まっている真冬の夜更け、女の子が、お父さんといっしょにみみずくを目指して、雪の道を歩いていく。みみずくが逃げてしまわないように、きゅっと口をつぐんだまま。

底冷えと言う言葉とは無縁の四国の夜、暖房はもうすっかり止められていて、出窓のカーテンを開けたせいか、部屋の中は清潔に冷たかった。

筋らしい筋以外は、たいして覚えていないにもかかわらず、いまだにこのお話を読んだことを覚えているのは、ぎゅっと口をつぐんで進む女の子が、自分たちに似ているように思えて。

今、この文章を読んでいるということ自体に、心地よさを覚えたときのふわりとアドレナリンが体内を巡る感じが、生まれてはじめての感覚だったからだという気がする。

たぶん、「時を楽しむ」ということを、人生で最初に意識した瞬間だった。

 

そんなことを、急に思い出し、くらくらとしながら、会場へと歩いた。

さふりさふりと、隣に歩く人に声をかけるのも憚られるような静けさの中、ブーツの下で踏みしめられる雪の音が、効果音のように響く。

辿り着いた先は、なんというのだろう。

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アメリカの古い時代を描いたものにときどき出てくる、移動遊園地。あれに、似ていた。

あのたくさんの色が溢れる感じ、ちょっと時空がねじれたように調子はずれな明るさと、会場全体に立ち込めるフィクションめいた昂揚感。

中央には、氷と雪と灯りで作られた巨大な滑り台があって、しっかりと雪支度を整えた子どもがきゃあきゃあと声を上げて、滑り降りてくる。

入るとまず最初に、氷の神社が見えて、小さな入口をくぐると、きらきらと輝くお賽銭が視界に飛び込んでくる。

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小さなお賽銭箱もあるのだけれど、色とりどりの効果が、氷の壁にぺたりと貼られてお賽銭となっているのだった。

われわれも例に倣って、ぺたりと5円玉を貼り付けてみる。

入ってきたのとは違う氷のドアをくぐると、一面、苔のように緑のライトを当てた氷の洞窟があり、それを抜けると、更に大きな氷の建造物が現れた。

見上げてみると、一歩一歩、違う色の灯りに照らされた階段が、ゆるゆると空の上まで続いている。

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こんなにきれいな階段は、もう人生で早々歩けないだろう、と思いながら進んだ先には、これまた、この世でいちばんはかない橋が続く。

青と赤のライトで劇的に照らし出された、はかなくて華奢な氷の天空橋

もしかしたら、わたしは何かの主人公なのかもしれない、と錯覚してしまうような、物語じみた橋。

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立ち止まって下を見下ろすと、夢みたいにきれいな景色が広がっていると知りつつ、数歩先の灯りを眺める。

後ろから人が来ていなければ、するすると渡り切ってしまうのがもったいないような橋。

この橋を歩いている自分の足元を、いつまでもじっと見つめていたくなる、ドラマティックな数mだった。

渡り切った先は回廊のようになっていて、氷の窓から見下ろすと、そこはふわりとあたたかな画廊になっている。

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氷の画廊は、わたしが絵描きだったらここに飾られるために絵を描くだろうし、もしも写真家だったら、この氷に映える写真を求めて、ひたすらシャッターを切るだろう、という昂揚感がある。

なぜか、今すぐ箒でここから飛び降りたい、という衝動も湧いてくる、ふしぎな力のある空間だった。

じっと見下ろしていると、ぐるりぐるりと箒に乗って周回するのが、この氷の写真展の、いちばん正しい鑑賞法な気がしてくる。

 

小さい会場なので、どんなにたっぷり見ても2時間はかからない。家族連れが多かったせいか、時が進むにつれて、だんだんと滑り台のスペースがいちばん混んできた。

それ以外の場所に人が少ないのをいいことに、小さなかまくらをわが物顔でお借りして、そのささやかであたたかな場所で、ゆっくり熱い甘酒を飲んだ。

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数年ぶりに外で飲む甘酒は、こっくりとした質感で、なのにどこまでも薄甘くて、この不思議におとぎ話じみたお祭りに、よく似合っていた。

 

翌朝、お祭りの会場すぐ近くの宿を離れるとき、「まだ少し時間があるから、昼の氷濤まつりも見ていく?」と訊かれた。

魅力的なお誘いではあった。夜が灯りで照らされているのも好きだが、明るい場所がきれいに彩られているのも、同じくらい好きなのだった。

でも、熟考した後、わたしは頭を振った。

なんとなく、あのひそやかな楽しみは、あれが完成形のような気がして。静かな静かな雪の夜の片隅で、秘境のようにたたずむ小さな灯りのフェスティバル。

すべてが氷でできた、しんとひそやかな町。

いちばん童話めいたお祭りは、と訊かれたら、わたしは「氷濤まつり」と答えるだろう。

「その方がいいかもね」と、ぐいっとアクセルが踏まれた車が、その場を離れていくのと同じ速度で、すべてが物語だったような気がしてくるところまで含めて、なんとも上等なフィクションを体験した気がして。

頬を冷たくしながら、冬が好きだと思ったのは、今年がはじめてだと思った。