Home Made Christmas
クリスマスがやってきた、と綴る前に、もはや大晦日に辿り着いてしまった。毎年、仕事を納めてからは、なんだかあっという間に年末になってしまう。文字通り、時が飛んでいく。
あれもこれも記録してないなあ、と写真フォルダを振り返っていたら、一昨年の出来事を「まだ書けてない」と心残りに思っていたことが発覚し、一気に戦意喪失。とてもすべてを綴れそうにはない。
ということで、ぽっかり時間のできた大晦日、駆け足でまだ記憶に新しいものごとをつらつらと。
まずは、クリスマスのこと。クリスマスは、毎年とても静かに過ごす。
24日も25日も、それなりの時刻に仕事を切り上げ、12月になってから、ほぼ作業台としての使用方法しかなくなっていたダイニングテーブルを、久々に食卓として使用した。
子どもの頃から、クリスマスといえば、いっそお正月よりも「家で過ごす日」という認識が強かったせいか、イベント好きだの癖に、人ごみと混雑にはめっぽう弱いせいか、大人になってもクリスマスを外で過ごしたことがない。
何かあれば「外に出よう」「遊びに行こう」「どこかでごはんを食べよう」と浮かれる性質なのに、クリスマスとなると途端にぴたりと口をつぐむ私に、恋人は「それは宗派的なやつ?」とおかしそうに確認してくる。
実際、毎年、街が赤と緑に彩られ始めると、わたしはすこし驚いてしまう。
幼稚園がカトリックだからいつの間にか…というだけで、なんともライトなものなのに、刷り込みと言うのはすごいなあ、と。
どこへも帰る必要のない暖かい部屋、触ってもいいクリスマスツリー。火からおろしたばかりで、まだ湯気の立っている料理。何度も観たクリスマス映画のビデオが、音量を絞った状態でかけられているブラウン管。
そしてしゅわしゅわのシャンメリー!
わたしのクリスマスとは、暖かく安心で「どこにも行かなくていい」家の中で迎えるもので、きらびやかなイルミネーションや、数ヵ月前から予約する瀟洒なディナーは、23日までの「輝かしいクリスマス準備」の一環という位置づけの方がしっくりくるのだった。
今年のクリスマスは、外す気になれないアドベントカレンダーを眺めながら、年に1回だけ作るスープを作った。
牡蠣とほうれん草のクリームスープ。
これは、ホワイトソースにたっぷりの牛乳と笑ってしまう量のほうれん草、そして生でも食べられる牡蠣をごろごろ投入してさっと煮込む、わたしがこの世でいちばん好きなスープで、別に食べようと思えば、いつでも食べられる。
季節によっては、牡蠣が多少怪しいけれど、煮込んでしまうものだし、まあ作れないことはない。
でも、なぜかどんなに風が冷たくなってきて、食卓にスープがあふれ始めても、「じゃあ、あのスープを作ろう」という気持ちにはならない。
牡蠣だけであれば、お鍋の具材としてしばしば登場するし、ほうれん草はと言うと、あらゆるスープに放り込んでいると言っても過言ではないくらいなのに。
それは至って単純な話で、たぶん、最初に食べたのが、クリスマスだったからだと思う。
並んで買ったKFC、シャンメリー代わりの甘いスパークリングワイン、いつもより少し華やかな装いのサラダ、チーズが溶けたピザ。
わたしはベタなものが好きだけれど、クリスマスの食卓だけで言えば、数年前に突如メニューに加わった新参者のこのスープが、いちばん好きだ。
やわらかく白く、少しよそ行きの味がして、なのにたっぷりと家庭的な量で体を温める「冬のスープ」。
今年は、あれをお鍋いっぱい分食べたいなあともくろんでいて、ほんとうにお鍋ごと食卓にあげて完食した。
ケーキはなくてもいいかなあと思っていたけれど、当日変えたので「治一郎」のクリスマスロールを。
スポンジがいっさい黄みを帯びていない上に、苺は別添えなので、開けた直後の姿は真っ白。
ちょっと練乳のような甘さが印象的な生クリームが、どこかバタークリームっぽさも感じさせて、バタークリーム派としてはうれしかった。ついでにと買った小分けのバウムクーヘンも、しっとりとやわらかくて美味。
子どもの時のブッシュ・ド・ノエル以来、久々のロールケーキで祝うクリスマスだった。TVには何度も観た『ホーム・アローン』。静かであたたかな夜。
「今年はささやかに」という約束を守り、わたしからのクリスマスプレゼントは、一番上の写真のホットワインとサングリアキットに。
「準備をする」「楽しみに待つ」と、「時を過ごすこと」がクリスマスの醍醐味なのであれば、たまには、普段あまり家では飲まないお酒をゆっくり飲みながら、きらきらとした時間を、ぼんやりと淡く、夜に溶かすのもいいかな、と。
どちらも、平日にもかかわらず、人いきれでくらくらしそうなPLAZAのクリスマスコーナーで見つけた。
色々なピンクに染められた頬の女の子たちが、様々な色を宿した爪先で、あちらこちらとプレゼントを選ぶ中、浮かれたコーナーの中央でひっそりとクリスマスカラーを纏っていたのが可愛くて。
"Home Made Christmas"のホットワインは、ジンジャーとシトラスというさわやかなコンビ。
サングリアはどちらのか失念してしまったけれど、小さめの瓶にドライフルーツとざくざくとした氷のようなお砂糖、そしてなんとキャンディケーンまで入っていて、そのままオーナメントになりそうなビジュアル。
"Rose&Apple"と"Mango&Pine"にしたけれど、クリスマスらしい"Ginger&Cranberry"も美味しそうだった。
ただ、結局、最初に開けたナイアガラのスパークリングで気持ちよく酔っぱらってしまい、まだオブジェとして、クリスマススペースに飾られてある。
はじめてスパークリングで飲んだナイアガラは、ふつふつと唇にはじける泡も小気味よく、そのくせ飲み下す時にはとろりとジュースのように甘くて、たいへん浮かれた夜が似合うお酒だった。
クリスマスのお酒だけは、甘いものじゃないとしっくり来ないのは、シャンメリーをはじめて飲んだときのあの昂揚感こそが、クリスマスの飲み物の醍醐味のような気がしているせいかもしれない。
毎日少しずつ小さな贈り物が増え、すっかり散らかしたまま、片付けそびれたホリデースペースを眺めながら、ひとまずサングリアはお正月に飲もうかなあ……なんて皮算用をしている。
ところで、毎朝開けていたカレンダーのバッグの中身だけれど、最終日は、意外なものが出て来た。
考えてみれば、どうして今まで誰もわたしにくれたことがなかったのだろう、というわたしがわたしにプレゼントをするのであれば、美しいノートと同じくらい容易くリストに挙げられるもの。
しっとりと指に寄り添う、万年筆だ。
ブラウンともブロンズとも言えない色がとてもきれいで、ささやかな持ち重りのする造り自体が、ものとしてとても綺麗。
散らしてある色がゴールドなのもただただ今の気分にしっくりきて、きゅっと鋭角なラインを見たくて、用もないのに何度も蓋を開け閉めしてしまう。
よく考えたら、こんなにいつも何かを書いて生きて来たのに、筆記用具をもらったことは、思い返してみてもほぼ皆無なのだった。その分、本はたくさんもらってきた人生だけれど。
ワープロとか、パソコンとか、いっそ再びポメラとか。デジタル系はおさがりをもらったり、新品を買う際に援助をしてもらったので、そちらにシフトしていったせいかもしれない。
ただ、もらってみると、万年筆と言うのは、なんだかしんと心が振り出しに戻るような、あるいは、はじめて何かを自分の手で綴った時の「あこがれ」にようやくたどり着いたような、不思議な感慨のある執筆道具なのだった。
わたしは本を読む少女だったので、きっといつかの誕生日には、綺麗な万年筆を贈ってもらえるのだと、漠然とした期待を抱いて生きてきた。
本の中ではしばしば、少年少女(少年の方が多かったけれど)が大人になる一歩手前、あるいは成人のお祝いとして、箱に入った持ち重りのする万年筆を贈られていた。
それは多くは、書斎を構えているような祖父からの贈り物であり、ときどきは、気難しい父からのものを、とりなし役の母がそっと旅立つ息子に渡す、というシチュエーションで登場したりした。
本の中の彼ら・彼女らはだいたいにおいて、本を読むのが好きで、しばしば自分で書き物もし、小さい頃にはプレゼントとして本を贈られるタイプの子どもだった。
たからわたしも、大きくなったら万年筆がもらえるのだと、なぜかほとんど「人生の規定事項」のように思っていた。
世の中にはいろんな方法で日々を記憶する人がいて、それがある人にとっては親しい誰かとのおしゃべりだったり、また別のある人にとっては丸ごと瞬間を切り取る写真だったり、さらに別のある人にとってはアルバム代わりにする記念の買い物だったりする。
それがわたしの場合は、シンプルに「綴る」ということだったのを、この数年、ずいぶんとさぼってきた。
それをいちばん近くで見ていた人から贈られたものが、シンプルな筆記用具であったという事実が、わたしがこの数年腑抜けていたことの証明だと思う。
成人式から8年経って、はじめてもらった万年筆は、誕生日のBOXではなく、クリスマスのバッグの中に入っていた。
なんだか遅れてやってきた卒業証書のようで、でも一方で、もう一度届いた入学許可書のようで、それはつまり、珍しく年を越す前に、「来年の目標」が決まった瞬間だった。