ときどき晴れのくもり空

いつか想像してた未来と今が少し違っていたって

Neverland in the theater

お昼ごはんは、久しぶりの家パスタ。昨夜、福岡に行ったときに買って、ずっと冷凍していた明太子の瓶を解凍しておいたので、それを混ぜるだけのかんたんな一皿。

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福太郎*1さんのTHE MENTAIシリーズ。

ころんとした瓶も、ラベルもすべてがおしゃれで、とてもかわいい。三瓶買って、いちばんスタンダードなものだけ、買った直後に食べきって、あまえびの入ったこちらとチーズの入ったもう一瓶はどちらもすぐに冷凍して、すっかり忘れていた。

たっぷりのお湯で茹でたパスタに、軽く塩揉みしただけのたくさんの水菜とあわせて、最後に罪の意識を消してマヨネーズをかけて、なんともジャンクなお昼ごはん。

パスタを茹でている間は、キッチンとリビングを行き来して本を読む。煮込み料理のときみたいにのんびりは読めないとわかっているのに、なぜか大きなお鍋でお湯を沸かすと俄然、小説が読みたくなるのだからふしぎだ。

茹ですぎないように注意して、ちょうどキリのいいところで推理小説を切り上げる。

食べ終わったら、そそくさと後片付けをして、残りの章を読破した。シンクの掃除もさっとしたし、朝のうちに回した洗濯物もとっくに乾きつつあるしでのんびりした午後。

 

30分ほどで読み終わったのは、こちら。 

今はもうない (講談社文庫)

今はもうない (講談社文庫)

 

ほしかった装丁ではなかったのだけれど、昨日の嵐にどうしても今すぐ読みたくなってしまい、妥協して買ってきた。

大筋は記憶しているので、どきどきを楽しむというよりも、古い映画を観ているようにクラシックな気持ちに。でも、お話の途中、さほど重要ではない描写でちょうど考えていたことが最後に種明かしされたときに、ばちりと合っていてそれにはすごくおどろいた。

大きなネタバレにはならないと思うので記録しておくと、この物語には女優が2人出てくる。その仕事の説明のところで、「キャストに変わってフライングをする」というような描写があった。

特に意味もなく、そのときわたしは先日観たばかりの『ピーター・パン』を思い出したわけなのだけれど、それがするりとまあ正解だったわけだ。

こういうことはままある。そのとき見た何かが別の何かで出てくる、というのはそれでも毎回、肌が粟立つほど面白い。

それは単にわたしがミーハーなせいだという場合も多々あるのだけれど、一見、ものすごく遠いもののつもりで選んだ2つがつながっていると、やっぱり自分の好きなものにはなにか共通するものがあるんだ、と思って納得したりする。

 

『ピーター・パン』は、家族連れに恐縮しながら、前から2列目のどセンターで観た。びっくりするほどいい席。これは、シングル観劇の最大のメリットだよなあ、と思う。

ここ数年、ほぼ大人しかいない演劇しか見てこなかったので、まず劇場のふんいきがとても新鮮。ちょっとしたテーマパークみたいだ。でも、劇が始まるとすっと静かになって、ちょっとびっくりするくらい快適な観劇環境。

そしてなんと約30分(!)で一度目の休憩があり、なんとなく外に出てジャンクな色をしたドーナツをかじった。

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6年ぶりにカムバックしたという神田沙也加嬢のウェンディと、宮澤佐江ちゃんのタイガー・リリーがお目当てだったので、この幕間でやっとピーター・パン役が13歳(!)ということを知る。

ものすごく伸びやかな歌い方で癖のないピーター・パン像に、なんだか納得。

沙也加ちゃんが30でウェンディをやるというのは特に驚かなかったけれど、お相手役とそんな年齢差だっというのはちょっとびっくりした。でも、それを感じたのは最後の場面だけだったのに、またびっくり。

みんなはアナを思い出すのだろうなと思いながら、わたしは数か所、ポニーのことを思い出した。あの音符が跳ねるような台詞の言い方が、ほんとうに好き。それにしても、近くで見ても肌が真っ白でめちゃくちゃきれいで、どうなっているんだろう……。

佐江ちゃんは、かなりディズニーのイメージが強いタイガー・リリーだった。そもそもあの役、あんまり喋らないしなあ。とりあえず、めちゃくちゃ似合っていたのはたしか。キレのいいダンスシーンが多かったので、結局、AKB時代に見られなかったKの演目を観た気分に少しだけなれて、しみじみうれしかった。

最後、幕が下りるときにずっとかがんで、最後まで客席と視線を合わせて手を振り続けてくれて、最後はぜったいに目があったと思う! と思わせて帰してくれるところが、さすが元・アイドルだなあ、と。

 

でも、思わずぶわっと涙腺がゆるんだのは、1mくらいの距離で見たお目当て二人のキラキラ感にではなく、カーテンコールで出て来たピーター・パンが、ものすごくきゅっと唇を結んで、意を決したように舞台の床を蹴り、客席に向かって飛んできたときの多幸感にだった。

そうだった、この舞台にはそういう演出があったんだっけ、と地元で小さいときに見た当時の舞台を思い出す。

ティンカー・ベルの金色の粉を振りまきながら、二度・三度と真上を舞うのだけれど、口を開けてそれを見てしまう喜びを、二十年ぶりくらいに追体験した。

思えば、多くの子どもと同じように、わたしの舞台の原体験も、この小説やディズニー映画で慣れ親しんだお話だった。

なんとなくだけれど、小さい頃に『アニー』で舞台をはじめて観た子は、「自分でもやってみたい」と思って、『ピーター・パン』がはじめてだった子は、「またこの夢を観たい」と思うようになるんじゃないかな、と思う。

(ほとんどの場合)大人になっても、ピーター・パンにはなれない。でも、ピーター・パンに魔法のお裾分けをしてもらうことはできる。

舞台にいる人に、ひと時だけでも魔法をかけてほしくて、わたしは今もお芝居を観に行っているのだと思う。わたしには劇場といういつでも行けるネバーランドがあるから、いつまでも子どもでなくてもいいのだ。

そんなことを考えながら劇場を出て、今かけられた魔法の反芻は夜までとっておくことにして、当たり前の大人の顔で暮れていく有楽町を歩いた。