ときどき晴れのくもり空

いつか想像してた未来と今が少し違っていたって

林檎とカシミア

火曜日。

お昼、低くラジオがかかっているお寿司屋さんのカウンターで、いつもより少し遅めに時間をずらして取った昼食が出てくるのを待っていたら、なんだかこのまま家に帰ってしまってもいいような気がした。

混雑する12時台を抜けた昼間のお寿司屋さんは、急いでいる人が誰もいなくて、のんびりしたラジオの調子も相俟って、旅先でごはんを食べているような気分になる。

天気が悪いと昨晩予報で見たわりには、表は存外暖かくて、ひとつふたつ風さえ吹かなければ、そろそろ春が近いと言われても驚かないくらい。

そういうわけで、ここ数日急に、オフで使う香水も、冬ものは店じまいかなあという感じがある。お寿司屋さんに香水は似合わないけれど、そんなことを思い出した午後だった。

 

今のうちに使わなくちゃ! の筆頭は、ニナリッチの真っ赤な林檎。

https://instagram.com/p/gqJ2OYr5Wv/

母とNYにミュージカル三昧の旅行をしたときに、何か記念にと選んだのがこの香水だった。

煮詰めた林檎とカラメルとシナモンのお菓子を脳内に思い浮かべたときの匂いと、二アリーイコールな香り。

夏には存在も忘れているくらいなのにシナモンのよく効いたこっくりした甘さが、コートの季節と共に、毎年、面白いほどきっちり恋しくなる。

同じ林檎型のボトルといえば、ロリータ・レンピカに焦がれた世代だけれど、当時10代だったわたしには、キャラじゃないあんな甘い香りは、とても纏えなかった。

その時分から10年以上経って、臆面もなくこの香りも手元に置きたい、と思えたこと自体が大人になった証だなあと思いながら、赤い林檎を棚に飾ったことを思い出す。

あの旅を境に、わたしは『WICKED』のポスターに、2人の魔女の姿が見えるようになった。

それまで面白いことに、耳打ちをしている白い善き魔女の方は、あんなにはっきりと描かれているのにもかかわらず、ちっともその存在が目に入らなかったのだ。

『WICKED』は悪い魔女の話だと思っていたし、彼女が主役なのだと思っていた。

でも実際にみて見るとそんなことはなくて、どこをどう切り取ってみても、ポスター通り、最初から最後まで2人の魔女の話だったのだ。

ほかにもいくつも思い出深い瞬間はあるけれど、あの旅の白眉はと問われれば、劇場を出た瞬間、目の前に貼られているポスターの全貌をようやく見ることができた、あの瞬間だったと思う。

そこにあった、ずっとあった。でも、見えなかった。

急に視界がクリアになったような、急にあたりが明るくなったような。たぶん、「目からうろこ」という言葉を体感したのは、あれがはじめてだ。

あの時どうして、あんなにもするりと林檎の香水に手が伸びたのか不思議だったけれど、もしかするとビッグアップルと呼ばれる都市で、魔女と林檎、という組み合わせが気に入っていたせいかもしれない。

香水の寿命は存外短いことは知っているのだけれど、秋冬限定なので、ちっとも減らない。あれから数年経って、当時よりもっと気楽に手を伸ばせるような大人になったにもかかわらず。

 

それに、他にも冬の香りはたくさんあるのである。これと絞るわけにもいかず、それでこの1週間ほど、家に帰ってから精力的にいろんな香りをつけ直したりしている。

その中に、コートという単語を思い出したときに、寸分たがわず思い出す香水があって、いまだにミニボトルでしか手元にないその香水を、毎年この時期になると、わたしは大事に大事に手首にたらしている。

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それは、MaxMaraの"Perfume for Women"。カシミアのコートをイメージしたと噂に聞く香りは、廃版になって久しいようで、ついぞフルボトルにお目にかかれたことがない。

そう、カシミア。その一言だけでこの香水の説明は十分というくらい、トップからラストまであたたかくてやさしいノートは、カシミアそのもの。手首に一滴たらしただけで、体中が包まれる多幸感がある。

香水が好きとはいっても、実は、手首につけることはほぼない。腰につけたり、スプレーした下をくぐったりという纏い方ばかりで、それは偏に、ちょっとでも香りがきついのが苦手だからに他ならない。

そんなわたしが手首にたらし、つけたての時からぐっと顔を寄せて匂いを嗅いでしまう香水は、ゲランのミモザとこれだけだ。

晴れた冬日、土曜日の午前中につけたりすると、それだけでとろけそうにしあわせになり、やわらかくひたすら薄甘いこの香りがつけられるだけで、冬の外出は数段楽しくなる。

ほかにもストレス発散気味に手に入れたポエムだったり、こちらも冬に旅行をしたときに手に入れたせいで冬が来ると使わなければ! と気が急くジャスミンの香りだったり。

そういう期間限定の香りが列をなしているので、こちらも先ほどの林檎と同様、家に帰って、さあどれにしよう、というときに毎回手が伸びるわけではないのだけれど。

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でも、気づくとふらふらと手に取っている回数は、だんとつで多い。甘いけれど、どちらかとすると、それを「やわらかい」と表現したくなる甘さで、わたしにとっては、たっぷりとつけても尚、深呼吸ができる数少ない香水だからかもしれない。

 

ところで、家に帰ってからと限定されてしまうのは、オンで使っている香水は決まっているからである。

考えてみると、この3年ずっと一緒で、一日たりとも浮気をしたことがない。働き始めたらつけようと学生の最後に手に入れたもので、その決意通り、ほんとうに社会人になってからはずっと一筋。

雨の日も晴れの日も、着替えまでしたもののちっとも行きたくなくて、なかなか靴が履けない朝も、仕事も面白いなあと思えた翌日、ハイヒールの靴音も軽やかな朝も、毎日毎日飽きることなくガラスのボトルに手を伸ばした。

これは身だしなみや嗜みというよりは、もはやおまじまいやジンクスの類に近くて、どんな朝でも玄関に立ってシュッと一吹きすると、その一日が、なんとかなる気がするのだ。

ややもすると、悪いことも起きるかもしれないけれど、取り返しがつかないほどには悪くならないはず、と。

上2つがわたしにとって、ただただ守られている気がするコートのような存在であるとすれば、こちらはどちらかとういと、ジャケットのような存在である。

どちらにしても、昼も夜も、オンもオフも。わたしはどうやら、香りに守られているみたいだ。

気の強い子どもだった。生まれてすぐに姉になり、親には甘えられないのだと思っていた。小学・中学といつも気を張っていて、舐められまいと必死な女子高生になった。そんなとき、はじめて香水というものを手に入れた。

守られるということがとても簡単なことだということを、最初にわたしに教えてくれたのは、香水だった。

17歳のあの1滴以来、わたしにとって、香水は数少ない“この世で全幅の信頼を置けるもの”として、常に人生の傍らにある。林檎とカシミアは、その中でも、一等上等な安心をくれる精鋭、とでも呼べるかもしれない。