東京珈琲
東京では何かと言うとコーヒーを飲んでいるのに、ここ数年、実家にいるときには、ほとんどコーヒーは飲まない。
ずっと缶コーヒー党の父やら、いつのまにかまたインスタント派に戻っていた母やら、地元でも頑なにスターバックスしか飲まない妹やら、かなりばらばらで不安定な実家のコーヒー事情も一役買っているのだけれど、単純に紅茶をいれる余裕があるというのも大きい。
実家にはわたしが高校生のとき、母のブームで、ブレンディやら何やらのドリップ式のものが常備されていたときもあり、そのときにはわたしもよく飲んだ。今はあっても、あまり手が出ない。
他方で、こちらも母のお気に入りで、こちらは今でも棚に生き残っている“牛乳屋さんの珈琲”は別で、これは今でも帰るたびに自分でいれてまで飲む。
カフェオレというよりはミルク珈琲と呼びたくなるまろやかさで、非常にまったりした空気に似合う。
朝起きて、トーストとスクランブルエッグとベーコン2枚、ベビーリーフのサラダという帰省時お決まりの朝食のデザート代わりに、とか。
そうして、温かいマグカップを片手に、何度か観たことある映画のDVDを、ただぼんやりと眺めていると、ああこのままいつまででもこうしていられるなあ、と骨抜きになりそうになる。ただあれはまあ、コーヒーじゃないな。
というわけで、ほこほこ甘い“牛乳屋さんの珈琲”をカウントしないとして、金刀比羅さんで新年1杯目のコーヒーを飲んだ次の1杯は、もはやぽんと飛んで東京だった。
2015年2杯目のコーヒーを飲んだのは、新年でも*1ある程度混んでいる渋谷の中で、いったい何がどうして年始から、みんなそんなに便利グッズに用事があるのだろうか? と首を捻りたくなるほど盛況な東急ハンズの最上階。
1月3日。三が日最後の日、午後2時の渋谷は、初売りも一段落したのか、人は多いけれど急いでいる人は少なく、何よりも車がとても少ない。
1年にこの時期にしか見られない、静かな渋谷の道路を見下ろそうと、横断歩道に上がって渋谷を眺めるところから始まった新年の散歩は、初売りとはぜんぜん関係のないお買い物三昧の数時間。
その中でもいちばん長い時間いたのは、年末買いそびれたイラストボード、それからこちらは、年末たまたまつけたTVでやっていた洗剤をどうしても見たいということで、訪れたハンズ。
恋人と付き合う前にはほぼ縁のなかったお店なので、この年になっても、行った回数はたぶん両手で数えられるくらい。
なので、まさかお正月にハンズにいる日が来るとは思わなかった。
そもそも、お正月に東京にいる日がこんなに早く来るとは思っていなかったわけだから、それも道理なのだけれど。
いろいろと買い物を済ませて思いのほか遅くなり、じゃあちょっとコーヒーでも飲んでから帰ろうか、と上がった7Fは、そこだけエアポケットのようにゆったりとしていた。
クリーニング用品から文房具まで、実用的なものならなんでもそろい、その一方で実用的でないものは何も置いてないようなイメージの強いハンズなのに、いちばん上まで上がってみると、どう見ても実用的でないものばかりの階が広がっている。
ぽんっと理科に強い男の子の脳内に迷い込んだような、散らかった実験室や、開館前の博物館に忍び込んだような、そういう光景。
それらの展示と地続きで、その名もずばり“HANDS CAFE”*2がある。
天井から吊るされた宙に浮かぶ地球儀、唐突にこちらを向くパンダの置物。なんだかよくわからないレバー。
わたしはあまり実用的なことに強い人間ではないので、B2から6Cまではいつも恋人の買い物を横から眺めているだけで、それはそれで楽しいのだけれど、7Fまで上がってくると急にほっとする。
「あってもなくてもよいもの」というのはつまり、「あると素敵なもの」で、まあなんというか、それまでの階に比べると、ぐんと実用性のないものばかり集めたこの階が、ごちゃごちゃしていればいるほど安心する。
世の中は、便利でないものや実用的でないものがあってこそだなあ、と実用性の権化のようなこのお店にそんな最上階があることに、ほっとするのかもしれない。
最初はコーヒーだけのつもりだったけれど、意外にもカフェメニューは大充実。
ぐるぐるといろんな階を約2時間(!)*3みっちり見て、少しおなかもすいていたので、恋人はホットサンドを、わたしはすごくおなかが空いているときにはなかなか選べないフィッシュ&チップスを注文。
ぽてっとしたチップスと、それより一回り大きい、こちらも幾分ぽてっとしたフィッシュ。
ほんとうはポテトはもっと細切りか、いっそほんとうにポテトチップス、フィッシュはさっくりとそのまま揚げたようなものが好みなのだけれど、これがスナック感覚ですごくおいしかった!
考えてみれば、フィッシュ&チップスというのも、好きなのに、ほとんど食べる機会がない食べ物のひとつだ。
ひとつずつ空けて、席はまんべんなく埋まっているにもかかわらず、あまり混んでいる感じがしないのはたぶん、向こう側一帯がお店になっているせいだろう。
隣に座っている新年初めて遊んだらしい大学生の女の子二人組の会話とか、どういう関係かいまいちわからない大人な男女の昨晩食べたそれはおいしい鍋の話とか。
そういうのを聴くともなしに聞きながら、食事を片付け、ミルクとシロップをたくさん入れたコーヒーを飲む。
ぽつぽつと、でも途切れることなく、それぞれの帰省の話を持ち寄りながら、われわれもしゃべり続け、今日は三が日かあ、東京でもお正月かあと思うと、いよいよ不思議な気持ちになったものの、何が不思議かといえば、その不思議なシチュエーションがそれほど不自然ではないことだった。
入ったときには、ずいぶんと青かった窓の外の空が、席を立ったときにはいつの間にか真っ暗になっているくらいの時間をかけ、いつにないくらい向き合って話をし、話を聞いたら、ああ、これはむしろ自然だなあと思ったくらい。
まっすぐ帰ってもよかったのだけれど、まだ少しこの不思議な日常感を堪能したくて、帰り道、毎回、品ぞろえの良さにくらくらする駅前のTSUTAYAに。
ついついお金を落としてしまう本や映画のDVDの階を差し置いて、わたしがここでいちばんわくわくするのは、何といっても、CDの階である。
ちっとも詳しくないけれど、聴きたい音楽のイメージだけはしっかりとあって、そういう「気分」で音楽を選ぶような人間には親切にもほどがある特集が、いつも手を変え品を変えされているから、というのがその理由。
もはやツボしかない! と薦められるがままに手に取ってしまったのは、「青春サイダーポップ」(!)というコーナー。サイダーみたいな音楽、それもポップだなんて、しかも青春だなんて、すべてがツボでしかない。
今探しているのは「ラムネみたいなポップ」なのだけれど、そのうち特集してくれるのじゃないかと、ゆったりと構えている。
ポストで返却と言うのはしみじみ便利なシステムだなあと思いながら、返却のことは心配せずにもりもりとレンタルして帰った。この中で気に入ったものがあったら買おう! と。
恋人は恋人で、今年はじめていくLIVEのバンドのCDをまずはレンタル、と何枚か見繕って満足げ。
家に帰り、3杯目のコーヒーはその日のうちに飲んだ。この数年の習慣になった、ぐるぐると手挽きのミルで挽いてわざわざいれるコーヒー。
まだお正月番組なTVをザッピングしながら、コーヒーを飲んでいる場所が現実だなあ、と思う。ああだから、実家ではコーヒーを飲まなくなったのかも、と。いやなことがない実家は、もはや現実と言うよりは、現実からのちょっと遠い休憩地帯。
東京ではいくらでもコーヒーが飲めて、だから、お正月にいたって、もうここはそんなに不自然な場所じゃなくなったのだという気がした。それがよいことか、そうでないことかは、さておき。
今年もきっと、この街でたくさんのコーヒーを飲むだろう。