ときどき晴れのくもり空

いつか想像してた未来と今が少し違っていたって

雪と、夜と、氷と

これまで、冬をすこし好きになるのは、たいてい、その中でほんの少し、温かさを見つけることができたときだった。

たとえば、びゅうびゅう風の吹く休日の外出で、その音も遮断するような、もふもふのイヤーマフを買ったとき。

あるいは、熱いカフェラテのテイクアウトカップで、両手の指先を温める帰り道。

駅に着くまで口をつけるのを我慢して、その我慢の分だけ、すこし冬と言う季節が好ましく思える。

熱い夏の日、すかっとする冷たさと出会ったときに感じるのが、一種、脊髄反射に近い快感だとすれば、凍える冬の日、温かさに心がほどけていく感覚はずっと、理性的なものだ。

耳たぶや指先から、じわじわと体中に温度が広がっていくにつれ、ゆっくりと理解する「しあわせ」。

 

だから、今年の冬、いちばん冬を好きだと思った瞬間が、まさに雪と氷のど真ん中に佇んでいた午後7時だったというのが、とても不思議な気がしている。

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数年越しに、一度観て見たかった氷のお祭りを体験しに、はるばる北の大地まで行ってきた。

 

毎年、支笏湖で行われる氷濤まつり*1は、1月の終わりから2月の下旬まで、約1か月続くふしぎなお祭りだ。

何がふしぎって、ともかく、しーんとしているのである。

周りには、屋台もお店もほとんどなく、そんなしんと静かな雪の中に、突如として、ぽわんと光が現れる。

暖色寒色が取り混ぜられた、色とりどりの灯り。

にぎやかなのに、人も目視できるくらいにしっかりいるみたいなのに、なぜだか人の気配がまったくしない静けさがある。

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それも、最初お祭りの会場が見つかるロケーションだと、かなり高みから見下ろす形なので、なんだかクレヨン王国を見つけた巨人のような気持ちになる。

だいたい、わたしはあの表紙の絵が大人っぽくて苦手な、軟弱な子どもだった上に、あの絵を「きれいだ」と思えるようになったときには、今更、青い鳥文庫も……という年齢になっていたので、しっかり読んだ記憶がないにもかかわらず。

クレヨン王国だ、と。

 

おそらくそれは、現在、再放送されているアニメを、生まれてはじめて見たせいかもしれない。

我が家のTVは、「新」と付くものを、とりあえずやたらめったら録画する仕組みになっているのだけれど、この間、膨大な録画番組の中で、『クレヨン王国』の名前を見つけて、わたしはおおいに驚いた。

その番組名で、リモコンを繰る手を止めた瞬間、「懐かしい!」と「これアニメになってたの!?」という声が、見事にハモって。

どうやら、わたしより少し下の世代にとっては、たとえば『おジャ魔女ドレミ』くらいには、「一度は見たことがある」というものらしく。

セーラームーン』のように、作中に出てくるアイテムをおもちゃ屋さんでねだったものだという。

わたしはそんなことをつゆ知らず、いっしょに叫んだ相手は、原作が意外に大人びた挿絵の本だとは知らないまま大きくなったそうで、たいして年は違わないのに、と思うとそのすれ違いっぷりが面白かったことを覚えている。

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おもちゃのような、桃源郷のような、箱庭のような。

そんな、ぎゅっと閉じ込められた灯りを目指して、さふさふとほとんど足跡の付いていない雪道を歩く。

上からしっかり全貌が見える場所から、まっすぐ下へは下りられない仕組みになっていて、ぐるりと迂回して、何度もカーブを曲がりながら、ゆるゆるとその場所へ近づく道筋が付けられているのだった。

人も少なく、会場までの道なり、特に誘導灯のようなものがあるわけではなく、上を見上げると、するすると伸びた木の間に、くっきりとした彩度で、星と月が浮かんでいる。

こういう誰もが寝静まったような雪の夜を知っている、と思ったら、それもまた、幼い頃に少しだけ読んだ物語の一説なのだった。

 

『月夜のみみずく』は、たしか何かの国語の教材に載っていたお話。

月夜のみみずく

月夜のみみずく

 

4月、国語の教科書が配られたら、まず最初に1冊通して読むことから新年度を始めるタイプで、だから、参考書や塾は嫌いだったけれど、国語の教材が増えていくことだけは楽しみだった。

わたしが小学校4年生の頃、なぜか、妹とわたしの中で、「真夜中に起きる」という遊びが流行ったことがあった。

遊びと言っても、実際に何をすると言うわけではなく、何時にもう一度起きる、と決めて、なんならアラームをかけて、真夜中、両親の寝静まった時刻に、そろって目を覚ますだけの遊びである。

もっとも、妹はわたしに輪をかけてねぼすけだったため、実際に、この遊びが達成されたことはほぼなかったことを覚えている。

そんな中、わたしは何度か、ひとりでひとまず起きるところまでは成功し、つついてもつついても天下泰平な顔で眠っている妹の横で、諦めてひとり、月明かりの中、図書館で借りて来た本をめくったりしていた。

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その遊びが、ややブームを過ぎつつあったころ、ある寒い晩、そうと決めたわけではないのに、なぜかむくりと朝の4時に、ふたりして目が覚めたことがあった。

朝の4時。

子どもにとっては、夜からも朝からも永遠のように遠い、果てしなく静かな時間帯だった。

あまりの静けさに、何を思ったのか、わたしは妹に「まずは勉強をしよう」と厳かに言い渡した。

時刻の魔法だろう。なぜか妹も神妙な顔でうなずいて、ふたり並んで、出窓の下に据えられた勉強机に向かい、もくもくと問題を解き始めた。

そのとき、解いていた国語の問題の素材が、『月夜のみみずく』だったわけである。

誰もが寝静まっている真冬の夜更け、女の子が、お父さんといっしょにみみずくを目指して、雪の道を歩いていく。みみずくが逃げてしまわないように、きゅっと口をつぐんだまま。

底冷えと言う言葉とは無縁の四国の夜、暖房はもうすっかり止められていて、出窓のカーテンを開けたせいか、部屋の中は清潔に冷たかった。

筋らしい筋以外は、たいして覚えていないにもかかわらず、いまだにこのお話を読んだことを覚えているのは、ぎゅっと口をつぐんで進む女の子が、自分たちに似ているように思えて。

今、この文章を読んでいるということ自体に、心地よさを覚えたときのふわりとアドレナリンが体内を巡る感じが、生まれてはじめての感覚だったからだという気がする。

たぶん、「時を楽しむ」ということを、人生で最初に意識した瞬間だった。

 

そんなことを、急に思い出し、くらくらとしながら、会場へと歩いた。

さふりさふりと、隣に歩く人に声をかけるのも憚られるような静けさの中、ブーツの下で踏みしめられる雪の音が、効果音のように響く。

辿り着いた先は、なんというのだろう。

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アメリカの古い時代を描いたものにときどき出てくる、移動遊園地。あれに、似ていた。

あのたくさんの色が溢れる感じ、ちょっと時空がねじれたように調子はずれな明るさと、会場全体に立ち込めるフィクションめいた昂揚感。

中央には、氷と雪と灯りで作られた巨大な滑り台があって、しっかりと雪支度を整えた子どもがきゃあきゃあと声を上げて、滑り降りてくる。

入るとまず最初に、氷の神社が見えて、小さな入口をくぐると、きらきらと輝くお賽銭が視界に飛び込んでくる。

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小さなお賽銭箱もあるのだけれど、色とりどりの効果が、氷の壁にぺたりと貼られてお賽銭となっているのだった。

われわれも例に倣って、ぺたりと5円玉を貼り付けてみる。

入ってきたのとは違う氷のドアをくぐると、一面、苔のように緑のライトを当てた氷の洞窟があり、それを抜けると、更に大きな氷の建造物が現れた。

見上げてみると、一歩一歩、違う色の灯りに照らされた階段が、ゆるゆると空の上まで続いている。

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こんなにきれいな階段は、もう人生で早々歩けないだろう、と思いながら進んだ先には、これまた、この世でいちばんはかない橋が続く。

青と赤のライトで劇的に照らし出された、はかなくて華奢な氷の天空橋

もしかしたら、わたしは何かの主人公なのかもしれない、と錯覚してしまうような、物語じみた橋。

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立ち止まって下を見下ろすと、夢みたいにきれいな景色が広がっていると知りつつ、数歩先の灯りを眺める。

後ろから人が来ていなければ、するすると渡り切ってしまうのがもったいないような橋。

この橋を歩いている自分の足元を、いつまでもじっと見つめていたくなる、ドラマティックな数mだった。

渡り切った先は回廊のようになっていて、氷の窓から見下ろすと、そこはふわりとあたたかな画廊になっている。

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氷の画廊は、わたしが絵描きだったらここに飾られるために絵を描くだろうし、もしも写真家だったら、この氷に映える写真を求めて、ひたすらシャッターを切るだろう、という昂揚感がある。

なぜか、今すぐ箒でここから飛び降りたい、という衝動も湧いてくる、ふしぎな力のある空間だった。

じっと見下ろしていると、ぐるりぐるりと箒に乗って周回するのが、この氷の写真展の、いちばん正しい鑑賞法な気がしてくる。

 

小さい会場なので、どんなにたっぷり見ても2時間はかからない。家族連れが多かったせいか、時が進むにつれて、だんだんと滑り台のスペースがいちばん混んできた。

それ以外の場所に人が少ないのをいいことに、小さなかまくらをわが物顔でお借りして、そのささやかであたたかな場所で、ゆっくり熱い甘酒を飲んだ。

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数年ぶりに外で飲む甘酒は、こっくりとした質感で、なのにどこまでも薄甘くて、この不思議におとぎ話じみたお祭りに、よく似合っていた。

 

翌朝、お祭りの会場すぐ近くの宿を離れるとき、「まだ少し時間があるから、昼の氷濤まつりも見ていく?」と訊かれた。

魅力的なお誘いではあった。夜が灯りで照らされているのも好きだが、明るい場所がきれいに彩られているのも、同じくらい好きなのだった。

でも、熟考した後、わたしは頭を振った。

なんとなく、あのひそやかな楽しみは、あれが完成形のような気がして。静かな静かな雪の夜の片隅で、秘境のようにたたずむ小さな灯りのフェスティバル。

すべてが氷でできた、しんとひそやかな町。

いちばん童話めいたお祭りは、と訊かれたら、わたしは「氷濤まつり」と答えるだろう。

「その方がいいかもね」と、ぐいっとアクセルが踏まれた車が、その場を離れていくのと同じ速度で、すべてが物語だったような気がしてくるところまで含めて、なんとも上等なフィクションを体験した気がして。

頬を冷たくしながら、冬が好きだと思ったのは、今年がはじめてだと思った。