ときどき晴れのくもり空

いつか想像してた未来と今が少し違っていたって

おもちのはなし

完全に季節外れになる前に。

最近、朝ごはんにたびたび登場するものがある。冬限定のメニュー、おもち様。

大好きで、できれば毎日・毎食食べたいくらいなのだけれど、そのカロリーたるや、秒速で大嫌いになれるくらいなので、朝限定にとどめている。

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おもちはあっさり焼くのか、そうでなければ、お雑煮にするのが群を抜いて好き。

たとえばクリスマスのローストビーフや、誕生日のケーキとは、ずいぶん華やかさが違うけれど、行事の名前を聞いて連想するメニューでいちばん好きなのは、もしかしたらあの小さなお椀かもしれない。

実際、その字面だけで、ちょっとしあわせになってしまう。

お雑煮。つつましやかで、なのにちょっとだけ浮き足立っている。

 

子どもの頃、ほとんどお節に入っているものが食べられなかったわたしが、それでもお正月が楽しみだったのは、年が明けると、お雑煮が食べられたからだ。

もっとも、おもち好き自体は、家族の中でも知れわたっていて、冬の音が聞こえはじめると、ある日を境に、我が家の台所には袋入りのおもちが常備されるようになる。

それをたとえばお鍋に入れて、白菜にくっつくだの、えのきはくっつけないでだの言いながら、ぐつぐつと煮込む。

それはそれで、とてもおいしい。

煮込まれた白菜やら、くたくたのニンジンやらがぺたりと張り付いたおもちを、ポン酢につけてさっと食べる。

でも、同じような具材と同じように煮込んでも、そして、お鍋の出汁が限りなく、お雑煮のそれに近いときでも、それはちっともお雑煮には似ていないのだから、面白い。

 

そんなことを、今日の朝11時頃、この本を読みながら考えた。

いとしいたべもの (文春文庫)

いとしいたべもの (文春文庫)

 

だいたい、食べものエッセイというのがわたしは好きなのだけれど、微に入り細に入り、描写をしているものより、ほわんとした記憶を掘り起こすような玉手箱のようなものの方がより好みである。

その点、『いとしいたべもの』は、収録されている作品のほとんどが、子どものときに食べたもののことを綴ったエッセイ集で、もう好きとしか言いようがない。

特に、表紙にもなっているメロンパンのエピソードで、最後、森下さんが辿り着く結論は、いっそ輝かしい。

「なんで、そんなにそれが好きなの?」と訊かれたとき、あの一文を毎回引用したくなってしまう。

 

さて、わたしの「いとしいたべもの」の話に戻ると。

結局、今年は、1回しか食べないまま終わって、それが元旦の朝だったことも手伝い、ちょっと気軽に次の一杯は作れないまま、2月が終わってしまった。

というわけで、それを取り戻すかのように、最近、せっせとおもちをたいらげているわけだ。

お雑煮は来年まで待つ気概があるけれど、おもちにまでそう、厳密には向かい合っていられない。

グリルにつきっきりになって、せっせと朝から育ている。

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ずっとレンジでチンしていたものを、お正月が終わって戻ってきた東京で、思いつきでグリルで焼いてみた。

めんどくさいし、焦がしそうだし、中は固いままになりそうだし……と1回だけやってみるつもりでやってみたら、見事に、「なんで今までやらなかったんだろう……!」 と10年分くらいの後悔をした。

外がぱりっとあられのようになり、中はとろりと見事なやわらかさにとろけ、直火で焼いていた人はずっと、こんなにおいしいおもちを家でも食べていたのか、と驚く。

数分経つと、ぷくうっとおなかがふくらんできて、そのおなかにもうっすら焼き目がついたところで、あわてて取り出す。

数秒の差でおなかが爆発してしまうので、おもちを焼いている間に、いつもすっかり目が覚めてしまう。

ある朝は、寝ぼけたまま焼き始めて、だんだんと頭がすっきりするにつれ、おかしいなと首を傾げ、すっかり目覚めた焼き上がりのおもちを両手でえいやと割ってみたら、中からあんこが出て来た、なんてこともあった。

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いただきもののおもちは、食べきれないほどたくさんあって、端から順に火にくべていくと、豆がたくさん入っていたり、あんこが出て来たりして、それも心楽しい。

おもちはだんぜん、しょっぱくして食べるのが好きだけれど、あんこも自家製ということで、さらりとした甘みがとても心地よく、数年ぶりに食べるあんこもちは、新鮮な味がした。

 

焼いたおもちは、少しだけ待てば、そのまま手で持てる。

両手で持って、ぱかりと割り、ぷくっと膨らんでできたおもちの中の空洞に、たらりと辛めのお醤油をたらして食べるのが、最近のお気に入り。

その片割れを口に運ぼうとするたびに、「これをお雑煮に入れてもおいしいだろうなあ」と一瞬思う。

でも、それはほんとうに一瞬で、次の瞬間にはかぷりと手の中のあつあつのおもちを頬張っている。

 

大人になって、ちょっと手を抜きたい平日の晩ごはんにローストビーフを買ってきて、そのお供においしいパンとスープを温めたり。

なんのお祝いでもない週末に、ふらりとホールケーキを買ったりすることには、ずいぶんと躊躇いがなくなってきたけれど。

お雑煮だけはまだ、「なんでもない日」に食べてはいけない気がしている。

三が日以外の362日、「無事に一年が終われば、そのご褒美として、いちばん大好きな一皿が待っている! 」と思い続けられることの方が、ルールを解禁してしまうよりもずっとしあわせなことのように思えて。

 

 

*こういう話は、言葉足らずで得意ではないため、追記で。

 

 

3.11を迎えると、毎年思う。

そんなちいさな“お約束”を、毎年積み重ねていきたいという思いが、どうか「つまらない願い」である世界が続きますように、と願う。

平和とか、安全とか、つまり日常と言うものを、真剣に願わないでいい日が来ますように、と。

誰もが壮大な夢や願いを紡げて、バカ話ができて。

「ふつうに暮らしたい」と言ったら、「つまんないやつだなー」と笑いが起きるような。

「この会話が、最後になったらどうしよう」なんて、瞬間も思わずに、軽口レベルの口げんかが、大切な人とじゃんじゃんできるような世界がいい。

どうか、やすらかでありますように。