「最初」と「最後」を探す日々
「今年こそは卒業を」と思いながら、なかなか卒業できずにいる習慣がある。
それは年を越す前にと、毎年、駆け足で積読を片付けることで、あれでもこれでもないと本棚を弄繰り回すのが、もはや年末の定番風景になっている。*1
だいたいのきっかけは、12月のはじめ、せわしい日々の中、ぽっかり何も予定のない土曜日に「大掃除をしよう」と思いつくことから始まる。
思い立つまでは、よい。
そこまではよいのだけれど、そこからがよろしくない。何も片付かないばかりか、気づくと、片付けるはずだった本棚の前で、とっぷりと日が暮れるまでページをめくり、広げ探した本で床は朝よりも混雑していたりする。
たとえばこの1か月で、晴れて積読の汚名をすすがれたのは、『盲目的な恋と友情』(こわかった)、『私にふさわしいホテル』(これはこれで更にこわかった)、『嘆きの美女』(『盲目的~』と梯子すると酔っぱらったような気持に)など。
本を読み終えたときの、あの何とも言えない「何十倍ものときを過ごした」という感覚が好きで、栞を挟まずに一気に読み終えるのが、いちばんしあわせな読書の仕方だと思っているせいで、一度読み始めると、まず他のことはできない。
一方で、12月も半ばを過ぎてくると、今度は別の焦りが出てくる。
「今年最後に読む本を何にするか」と言う重大問題が、俄然待ったなしの課題として、持ち上がってくるからだ。
あまりに軽いエッセイでは、一年の〆としてあっさりとし過ぎているし、写真集やフォトブックは結局何かほかにもう1冊! と追加したくなりそうだし。
かといって、年末年始のお休みに浮かれている身としては、文学的に過ぎる本格小説もそれはそれで荷が重い。
この一年と来年を象徴するような本、しかも今の気分にぴったりくるもの、と本棚をにらんでみても、結局ピンとくるものが見つからなくて、結果的に本をまた増やす結論に甘んじることも珍しくない。
『家族シアター』はよかったよなあ、帰れば、恥ずかしい話、いまだにティーンエイジャーみたいにうんざりすることもある実家だけれど、まあやっぱり悪くないんじゃない? という気持ちになれて、帰省して読むには向いている1冊な気がする……
と今年1年の戦績を振り返ってみたり。
それと同時進行で、「来年最初に読む本」も選定しなくてはならず、読む本/読まない本/すぐに読むのだけれど、まだ読んではいけない本 というのを、仕分けていると、刻々と時間は過ぎていく。
今年も、そうだった。
本を探す合間に、再読となる『時計館の殺人』(3度目なのに細部をすっかり忘れていて、「一度読んだミステリの世界に放り込まれても、わたしは間違いなく序盤で殺される」という確信を強めた)を読み返したり。
文庫になっているのを見かけて、ついつい積読リストを長くしてしまった『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(フィンランド!)に手を出したり。
蛇行運転を繰り返しながら、なんとか「今年最後の1冊」候補を数冊にまで絞り、今はこの本を読んでいる。
ずっと気になりながらも手に入れるのを先送りしていた1冊で、信頼している方がオススメをしていたのに背中を押された気持ちで、えいやっと帰省する直前に購入した。
久しぶりの2段組みの書籍で、それに懐かしさやうれしさを覚えるよりも、一瞬ひるんでしまった自分の活字離れぶりに、少しさみしくなる。
第1章の時点で、もうだいぶ満足してしまうくらいに読みでがあるので、これが「今年最後の1冊」でいいのでは、と思っていた。
と過去形なのは、同時進行で読み始めた*2ものが、予想外にぴたりと今の気持ちに寄り添う、心地よい1冊だったから。
『あこがれ』というシンプルなタイトルに、砂糖菓子のように甘い配色のカバーと帯。
実際には、『あこがれ』というお話はどこにも入っておらず、『ミス・アイスサンドイッチ』、そして『苺ジャムから苺をひけば』という中編2編を括ったときのタイトルが、『あこがれ』となっている。
これがもう!
第1章にあたる『ミス・アイスサンドイッチ』が良すぎて、久々に読み終わるのがもったいなくて、第2章のページをめくり始めることができなかった。
だって、こういう物語とは、そうやすやすとは出逢えない。
たとえば、わたしはミステリが好きで、「こういうトリックが読みたい」だったり、「こういうシチュエーションがいい」という願いは、そのジャンルの場合、存外簡単に満たされる。
それがミステリではなくても、「謎を含んだ物語を読みたい」と思えば、そういう本を探し出すのはそれほど骨が折れることではないし、根気よく店頭で背表紙を眺めれば、だいたい数冊はつれて帰りたい本が見つかる。
それに比べて、こういう物語は難しい。なんというか、子どもの話であればいいとか、青春小説であればいいとか、そういうことではない。
「瑞々しい物語が読みたい」と思ったときに、それだけの手掛かりで、今まさに読みたい本に出逢うのは、間違った一般名詞の検索ワードだけで、ワールドワイドウェブの大海に泳ぎだすようなものだ。
そこには親切な「もしかして」もなく、ときに有用な「次の検索結果を表示しています」は救いようもなく的外れで、結局タブをそっと閉じるしかない。
だから、たまに訪れた僥倖は、なかなか一気にたいらげられず、カバーを外したり、帯を取ってみたり、いろいろと時間を稼ぎながら、ゆっくりゆっくり読み進めている。
カバーを外すと、すこしくすんだパステルブルー。その色合わせを完璧で、なんだかしみじみと本を撫でてしまった。
もともとこの本を買おうと思ったのも、開いたページの中にシックなクリスマスツリーを見つけたからで、25日の夜、まっすぐ帰ろうかなあと悩んでいたときに見つけたそれは、心許ないお財布の紐を緩めさせるひとつのきっかけになった。
この子とならば友達になれたのに、という子を本の中で見つけると、わたしはどうしてもその本に対して、不適切なくらい親密な気持ちになってしまう。
「今年最後の1冊」はこれかな、と思いながら、「来年最初の1冊」にまだ迷っている大晦日の午後5時。
駆け込みで整理をしたくなるものは、もうひとつある。朝起きる理由のひとつにもなっている、コスメたち。
できれば長く使いたいと思って日々大切に使っているのに、この時期になると一転、そこが見えそうな気配があると、無駄に使用量を増やしたりして、あわよくば使い切れないかと試みてしまう。
少しだけお化粧が濃くなり、いつもよりたっぷりとした保湿が行われるのが、年末年始の風景である。
それは、元旦になにかしら新しいものをおろしたいから、というもうひとつの年末年始の朝の風景もあって、そのためには何かを使い切るのが望ましい。
去年の元旦には、ANNA SUIの流れ星リップをおろした。ちょうど年末、やわらかい色のリップをひとつ使い終わったので、それはもう、嬉々として。
「最初」とか「最後」とか、そういう区切りになることがなんだか昔から好きで、でも、それはたぶん、それをきっかけに、少しだけ「今の自分」が明らかになるからだと思う。
ああそう、そういう気分だったんだ、と自分が選んだものに自分が驚く。
そしてそれは、一年の内でいちばんやることのない、このしあわせな1週間弱でしか、なかなかできないこと。
たとえば旅行をしたり、あるいは出歩いて、いつもは会えない人全員に会いに行ったりりと、これだけ休みが続けば、なんでもできる年末年始だけれど。
もうしばらく、瞳に映る風景は、見慣れた街のありふれたものであってほしいと思っている。