ときどき晴れのくもり空

いつか想像してた未来と今が少し違っていたって

晴れた日はどうしても海に

ばたばたとしている間に、3月も残り10日ちょいに。慌ただしくも、たのしい用事も多い2週間強だった。そんなこんなで、倒れるように眠った日も、体調を崩してしんどいのになかなか眠れない日もあったけれど、気づいたら春である。

例年であれば、そろそろ桜が見たいなあと思いつく頃。今年は、春より一足先に、少しだけ夏気分を味わいに行ってきた。

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わがままを通すことに関しては、天分の才のある年子の妹がいたので、「どうしてもあそこじゃないといやだ」と駄々をこねることの極端に少ない人生だった。

思い起こしてみれば、友達にもわりと、そういう才能のある子が多かった気がする。常にどうしても行きたいところや、どうしてもしたいことがあるという、その健やかなエネルギーが、わたしはとても好きだった。

そういう環境で生きてきたので、「どこに行きたいか」という問いに真剣に向き合ったことというのが、実は数えるほどしかなかったんじゃないかと思う。

それでも、大人になって妹と別行動を取ることのほうが多くなってくると、急にちゃんと答えのほしい問いとして「どこに行きたい?」と訊かれるようになったのだから、あたふたとしてしまう。

もっとも、それは帰省したときだけじゃなく、大人になってからできた友人、ひいては恋人までもが、わりと真剣に、ことあるごとに「で、どこに行きたい?」と訊いてくるので、少し戸惑っている。

終始ぐったりしていた働き人1年目でも定期的に会えた人というのは、ひとりでいるのと変わらないような、性質の似ている人が多いせいかもしれない。わたし以上に、「ちょっとでも行きたい場所がある人の意見を優先」というタイプが多いみたい。

そういうわけで、この5年ほどは、なんだかんだで人生でいちばん真剣に、自分はどこへ行きたいのかを考えた時期になった。

 

それでようやく知ったのだけれど、わたしが常にいちばん行きたい場所は、どうやら海みたいだ。

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それが晴れた日であれば、冬以外の3つの季節では、常に「海」という答えがいちばんに浮かんでくる。なんなら冬でも雨でも、「ああ晴れて天気が良かったら海に行きたかったかも」と答えているくらいなので、たぶん間違いない。

海は海でも、できれば砂浜が望ましい。波がざぱーんと石を叩いたりしない、穏やかで寄せては引く潮をぼんやりと眺めていられるような、だだっぴろい砂浜。

そう思うのはこれはもう、瀬戸内で育ったからに違いなくて、わたしの中で海というのはひたすら穏やかなものである。

サーフィンボードの浮かぶ可能性もない、海水浴に上手に歩けない年から行けるような、静かでやさしい海。はっとする深いグリーンだったり、珍しい生き物がいたりというきらびやかさもないけれど、空との境目がゆるゆるぼやけていく淡い水色をした海。

水色という色を、わたしは毎年季節が良くなると何かにつけて遊びに行く地元の海で、好きになったのだと思う。水色、とはなんて正確に色を表した名前なのだろう、と。

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大人になった今では、海を訪れるときも、ストッキングやタイツを履いているときの方がずっと多いけれど、それでもどうしても水色に手を浸したくなって、たとえばブーツのつま先を濡らさないように気をつけながら、波打ち際ぎりぎりまで近寄ってしまう。

近づくとどんどん水色が淡くなり、指先が触れる範囲はほとんど透明なのに、少し顔をあげると、視界のすべてに見事な水色が広がっていて、何度見ても毎回、ついつい目が細くなる。

いっそ自分の瞳そのものが淡い水色に染まったみたいで、たぶん色が目に染みるというのはこういうことなのかも、とこれも毎度毎度納得してしまう。

どうしてもというならば波止場でも悪くはない、と行くまでは思っているのだけれど、あの水色を見るたびに、やっぱり砂浜がいい、とあっさりと気持ちは意固地になる。

波打ち際までまっすぐ白い砂の上を進み、いつでも冷たい水に手を浸しながら、しゃがんで見る、どこまでも水色の世界! あれを見ると、どうしたって、海は穏やかなものであってほしい、と思う。

いつでも行きたいし、砂浜なら何もしなくてもずっといられる。

 

だから、今年のはじめ、恋人と「今年は行きたいとこにもっと行こう」という話をしたときに、いちばん最初に行きたいと思ったのも、地元の海だった。

ばたばたの積み重なった1月の終わりで、「ああ海が見たい」そう思ったらいても経ってもいられなくなり、何も考えずにぼんやりするために温泉旅行でもというくらいなら、もうこれはぜひうちの地元の砂浜だと、と。

それで、一泊二日という弾丸で、今年最初の海を見に行ってきた。

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もともと空港と市内が近い県というのもあり、飛行機を降りた数時間後には海にいた。

おにぎりマンのついた水色の電車に乗って、ゆるゆると双海の海へ。JR松山駅から40分弱、1時間に1本くらいしか出ない路面電車に揺られていると、海に近づくに連れだんだんと空が明るくなっていく。

空港に降り立ったときには、ぽつぽつと雨がバスの窓を叩いてる空模様だったのに、海についたときにはすっかりいい天気。

雨の海も夏なら素敵だけれど、この時期にはまだ肌寒いので、一安心しながらまずは腹ごしらえを。

双海の海には、近くでとれた海鮮をおばちゃんたちが焼いて食べさせてくれる、いわゆる海の家のようなものが夏以外にもあり、横に設けられているテーブルには屋根もあるので、たとえそれが雨でも、波と雨の音を聴きながら、なにもかもがおいしい魚やら貝やらを堪能できる。

そのどれもが笑ってしまうほどおいしくて、とてもお手頃。一度食べたら、いっしょにごはんを食べるのがたのしい人を、ぜったいに連れてきたくなる場所だと思う。

この砂浜でだけ、鰻より穴子党になってしまうほど肉厚でおいしい穴子を、たっぷりとしたタレにつけて焼いたの。

ガイドブックによく乗っている、鯛のお刺身に生卵と甘辛いタレを絡めて食べるタイプではない、普通の炊き込みご飯に近い方の鯛めし。そして、お祭り気分になるぷりっぷりのイカの焼いたの。

そのどれもが出来たて、焼きたてで、おなかいっぱいになるかもという心配が嘘のように、するするとお互いの胃に収まっていった。

もう一声、というところでやめておき、膨らんだおなかを抱えて、砂浜へ。近づけば近づくほどきれいな水色になっていくことが、どうも恋人には理解し難いらしく、「この海はなんで近づいた方がもっときれいなの」を連呼していた。

柚子のジュースの空き瓶に、海をすくっては垂らし、垂らしてはまたすくって、何度も何度も水の色を確かめている。

ガラス瓶の中の海も薄青く澄んだ水色で、ガラス越しに見た海はますます青い。

少しの風もない、泣き出しそうだった朝の空が嘘のように、どこまでもきれいに晴れた、春の匂いのするお昼で、今日この景色をいっしょに見られただけでも、この人はずっと、人生の中で特別な人でい続けるだろうという気がするほど完璧な水色だった。

 

感傷的になるのを混ぜっ返すには、いつでもおいしい食べ物が効く。

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八部目のおなかは、ソフトクリームのため。ということで、ぽかぽかした日差しの中でコーンをかじる。

こういうとき、いつも迷いに迷って定番のバニラを頼んでしまうのだけれど、「ソフトはご当地ものを食べるべき」というポリシーのあるらしい恋人が、オレンジ色の夕焼けソフトを選んでいて、わたしは何度も通った海ではじめて、夕焼け色のソフトクリームのご相伴に預かった。

すっきりとみかんの味がする夕焼けソフトは、爽やかに感傷的な味がした。

 

絵はがきを書く恋人の横で、旅行のときにはいつも持ち歩く文庫をめくり、それに疲れたら海を眺める。のどかだなあ、と100回くらいは言葉を交わしたと思う。

頭のてっぺんに潮風とおひさまを感じながら、午後のいちばん暖かい時間帯を砂浜で過ごし、さあ行きますか、と帰りの電車の待つ駅へと立ち上がったときには、早起きして移動して飛行機の後に電車まで乗って、なのにそれが全部帳消しになるくらいに心が凪いでいて。

3日くらいそうして、ただ海を眺めていたような心地だった。

道の駅では笑ってしまうほどたくさんのみかんが、1袋100円でぼんぼんっと売られていたり、最後まで夢のよう。旅行のスタートが海だったというのに、もう3日3晩休んだような元気さで、砂浜をあとにした。

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よくよく考えなくとも、わたしの地元は温泉地でもあり、結果的には今回の旅もほぼ温泉旅行になったのだけれど、それでもやはりこの旅行の主眼は、あの何もしない海辺の数時間だったと思っている。

わたしはずっと、「どうしても」海に行きたかった。

毎回毎回、「そんなに海が好きなの?」と笑われてしまうほど、海に行きたい海が見たいとばかり答えてきた。

でも、それはどこでもいい、どこかその辺の海じゃなくて、たとえば南の島の海でもなくて。

わたしが見たかった海も、行きたかった海も、あの日あの場所の、あの永遠みたいな海だったのだ、という気がしている。過去と今と、これまでとこれからとが同じ濃さで混ざった、どこまでも穏やかないい海だった。