ときどき晴れのくもり空

いつか想像してた未来と今が少し違っていたって

Bitter and Better

平日。あと一息あと一息と思いながら、この間、あんな記事を書いたせいか、酔っぱらった頭で、夜の11時から本棚を物色し、1冊まるっと本を読んでしまった日が続いた。

週の半ばに読んだのは、「夏に一番読みたい本」だか、「一番夏に読みたい本」だか、そういうオビのアオリのせいで、夏に買ったままずっと読めずにいた『ホテル・ジューシー』。

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ばかばかしいとは思うのだけれど、わたしはそれが本でなくとも、「こうこうこういうときに、こうこうこういう状態でぜひ」とオススメされると、それが不可能でない限り、できるだけそのシチュエーションで試してみたくなる性質で、そのせいで買ったはいいものの読み損ねている本が優に十冊はある。

この本は、もともとは、南の島に行く準備をしているときに、何か新しく持っていく本を、と思って手に取った本だった。

なのに、時間はたっぷりあったにもかかわらず、飛行機の中(ほぼ寝ていた)でも、飛んだ先のホテルでも、プールサイドでも、一切ページが進まず。

結局読めたのは、それまでにも何度も何度も読んだ『ホリー・ガーデン』のみで、これだけではなくて、せっかく揃えた新しい蔵書の数々を、ちっとも読めずに帰ってきた。

んなにそのとき新しく読みたい本があっても、荷物を極限まで軽くするときにでも、長い旅に出るときや、はじめての場所へ日帰り出張に行くようなときには、必ず江國香織さんのこの小説を持っていく。

あまりに何度も読み過ぎて、筋や台詞どころか、ところどころ地の文も空で言えるくらいだから、ストーリーを楽しみにというわけではない。

読むとほっとするといういう理由だけで、毎回毎回手が伸びる、まるで旅のお守りのような1冊で、もう10年近くいっしょに旅をしている。

 

そういうわけで、南の島のプールサイドという絶好のシチュエーションを逃した『ホテルジューシー』は、それ以来、本棚に面陳され続けていた。 

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猫が2匹並んだ装丁とだけはいい加減親しくなったところでようやく、酔っぱらってへらへらといい気分なのが功を奏して、えいやっと最初のページをめくることができたのである。

酔っぱらっているときに本を読むのは久しぶりで、だいたい疲れて文字を追いかけているうちに眠ってしまうのだけれど、ひとつひとつのお話が短いので、もうひとつ、あとひとつとめくっている内に、解説まで辿り着いてしまった。

するする読めることに関しては、信頼を寄せている作家さんのひとりなので、いざ読み始めるとほんとうにあっという間。

南国×ホテル×女子大生というキーワードで想像していたゆるさと、個性豊かなホテル従業人と謎を抱えたお客さんたち、というキーワードで想像していたほのぼの感をきれいに裏切る、ちょっぴりビターな連作短編集だった。

週の中日に読んだりしたら、働きたくなくなるかしらん、という危惧もなんのその! のどちらかというと日常にぐっと寄った、浮かれたところのないお話。

でも、そのビターさが心地よくて、物語の舞台が沖縄だということに、妙に納得した。なんというか、どことなくゴーヤっぽい。むやみやたらに苦いのではなく、かみしめるごとに滋養があふれ出る苦さ。

坂木さんの小説は、軽やかな題材や、さわやかな装丁からはちょっとびっくりしてしまうくらい、ふっとビターな味が横切ることがあって、それが最終的には、暗くも重くもならないところがすごく好きだ。

数百ページの中で何が起ころうと、読後感は、パッケージの印象通りとても軽やか。

 

そうしてなんやかんや乗り切った平日が終わり、週末がやってきた。

土曜日は昼ごろからごそごそと起き出し、その後は一食も自炊をせず、数年来になる友人たちと、それはもう昼下がりのカフェに似つかわしくないレベルでろくでもない会話を繰り広げ、終電近くまでひたすら遊び倒した。

何の目的もテーマもない会で、あけすけもいいところな話しかしないし、たぶん、集まっているメンバーにわそれほど共通点も多くない。出会ったのが学校でなら、おそらく絶対に休日の午後に定期的にお酒を飲むような仲にはならなかっただろう。

にもかかわらず、この会がゆるゆると続いているのは、たぶん気軽だから。

例えば会の途中で眠ってしまってもいいような気軽さはもちろん、もうひとつ、喋るのがとても楽なのが大きい。

誰に遠慮することもなく苦手なものを苦手と言え、好きなものを好きと言え、たとえ中にそれをすごく好きだったり、苦手だったりする人がいても、その発言にうっかり傷ついたりしない。

違うということで傷つけたり傷ついたりしないというのは、簡単なようで、大人になった今でもすごく難しい。

本来めぐり合わなかったかもしれない、まったく別々の人間が、たまたま仲良くなってしまった……という「うっかり感」が根底にあるせいか、別々であることが悪いことだとは思われていない節が、この会にはある。

ときに話題はとてもビターだったり、他の人から打ち明けられたら、よくよく相槌を打つこともできないような話が出てきても、特に誰も驚いたり気まずくなったりもしないのが面白い。

この人に何を言っても平気だな、と思えるのもしあわせだけれど、この人になら何を言われても平気だな、と思えることはたぶんもっとしあわせだということを、わたしはだいたい土曜日の午後4時ごろに思い出す。

そういう意味では、たとえときに話題がビターであっても、終電前の駅で手を振るときには、特段、何をしたわけでもないのにすっきりした気分になっているこの会も、わたしにとって必要な滋養なのかもしれない。