ラム&コークと串カツ日和
月曜日。目が回るような定時をなんとかやり過ごし、当たり前のようにある残業をやっつけ、ばたばたと仕事を終えて、月曜日からカラオケへ。
プライベートで歌を歌うのっていつぶりだろう。お正月に家族で行ったのを除けば、仕事の飲み会の〆以外というのはとても久々で、昨夜は昨夜で遅かったにも関わらず、歌えば歌うほど元気になって楽しかった。
たぶん本当はカラオケって、そういう効用があるものなのだと思うのだけれど。懐メロのレパートリーばかりが増えたここ数年、そんなこともすっかり忘れていた気がする。
べたべたと甘い飲み物を片手に相手が知っているかすら気を遣わない歌を歌っていると、お互い朝は1分でも早く家に帰りたいと思っていたはずなのに、ついつい調子が出てしまい、時間を延長して帰ってきた。悪くない月曜日。
歌と言えば、この間の週末、わたしは生まれて初めて、ライブハウスというところでライブを観た。
ライブよりはまだ少しコンサートの方が身近、という人生を歩んできて、大人になってからはめっきりアイドル派になってしまったので、本当に縁がない場所だったのである。
思春期以降、周りにはバンドを組んでいるクラスメイトもたくさんいたし、友人にはバンドマンの恋人がいる子が常にひとりはいたけれど、ライブハウスに観に行ったことはついぞなかった。
単に縁がないというよりは、少し明確に足が遠のいていた理由があって、子どもの頃、わたしはお祭りの太鼓の音が怖かった。
すぐ近くで叩かれているわけでもないのに耳にわんわんと響き、ばくばくと自分の心臓を叩かれているような気持ちになって、そわそわが止まらなかったことを覚えている。
たとえばTVでも、母と妹はすぐに音量を上げたがり、わたしはぼそぼそと絞った音でニュースを流したがる父よりも更に、小さな音量を好んだけれど、太鼓の音は特別だった。
町でお祭りが始まる度に、「観に行こう」と騒いで道の前へ前へ出ようとする妹と違い、わたしはできれば遠くから眺めていたかった。
知らずに近くまで行ってしまい、見える距離で太鼓が叩かれたりすると、ほんとうに文字通り、飛び上がってしまうくらい驚いていた気がする。
そういうわけで、リズムを取る楽器の大きな音が近くですると、わたしは今でも心揺さぶられると言う比喩ではなく、極めて物理的に、「心臓を打たれているみたい」だと思ってしまう。生の音楽は、耳でというより、体で聴くという方がふさわしい。
そんなわけで、一度、20分ほどだけライブハウスというのに滞在したのは、大学も卒業して、恋人と付き合うようになってからの話である。
その時は、恋人の知人が対バンをするというので、応援にいっしょに駆り出されたのだった。
重いドアを開けて入ると、即座に甘い煙草の匂いがぎゅうっと肺を抱きしめるような小さなライブハウスで、寒いからと、もこもこの格好をして行ったわたしは、びっくりするくらい浮いていた。
歩いて数歩の場所にあるステージの上では、細い体にギターを抱えた女の子が、人間嫌いの猫の鳴き声のようなかすれた声で、愛について歌っていた。
そのときには、まずはデビューということで、知人の応援だけすればいい最短コースでエスコートされたのだけれど、そうでなければ、きっと酸欠になっていたんじゃないかと思う。
ぎゅいんと耳の横で鳴るようなギターに、ずんっとおなかに響くベース、そしてお祭りの太鼓よりも数段にぎやかなのにどこか物悲しいドラム。
楽器のひとつひとつが物理的に体を揺さぶり、一番後ろで壁に持たれて、どうしたことかここで嗅ぐ煙草の匂いは甘い、と思いながら、地下のライブハウスで音楽を聴いていると、まるでこの世の果てでロックしか残っていない世界で、最後の歌を聴いているような気がした。
他のどんな音楽よりもはっきりと、わたしは聴きながら、心許ない気分になった。
なんというか、「ここにいる人だけが、ちゃんとした世界の生き残りなのでは」という気分に。それはそれで面白く、濃い体験だった。
というわけで、名実ともにはじめてのライブハウスでのフルライブ参戦となった今回は、もっと心許ない気持になるのかも、とぎゅっと身構えていったのだけれど、結果的にはただ楽しかった。
寒い2月の週末、行きには小雨まで降っていたけれど、ライブハウスの外に出たときには、とてもいい昂揚感で満たされていた。
楽しくて、そのまままっすぐ家に帰るにはエネルギーを持て余していて、串カツを食べに行ってしまったくらい。
串カツというのも、なかなかどういうシチュエーションで食べたらいいのかつかみ損ねている食べ物のひとつである。元気がないと食べられない、至極ジャンクなごちそうであることは間違いないのだけれど。
威勢よく書いてある「二度づけ禁止!」も、たとえばソースやおしょうゆをつけて食べるものだと、味を調節しいしい食べたい優柔不断なわたしには、ハードルの高い注意書きだし。
そして食事への思い切りというのが足りないので、わたしはしばしば、串カツのソースを染みさせ損なう。
そんなことも気にならないくらい元気が出ていたので、席に座るなり注文をした。
ほたてに紅ショウガ、キスにハモにぼんじり。それぞれからっと揚げられた串は、油が軽くて、追加された端からいくらでも食べられそう。
ソースにくぐらせる手もぐいっと大胆で、ちょうどよく絡んでいる。
ライブハウス内はぎゅうぎゅうに人が詰め込まれていたので、ヒートテックを我慢して出かけたにもかかわらず、一歩外に出ると肩で息をしてしまうくらい、熱気と人いきれで熱かった。
運ばれてきたハイボールの最初の一口が、夢のようにおいしい。
そもそも知識がないので、わたしの音楽の基準は好きか苦手かだけなのだけれど、メロディアスなラインが多いバンドで、それがどれも明るくてきれいで、心地よかった。
細い脚のグラスで飲むフレッシュカクテルでも、ジョッキであおる炭酸でも、摂取した後にお酒がおいしく飲めるのは、いい音楽の証だと思う。
心がすうっとさみしくなるような旋律が好きな時代もあったけれど、ライブハウスで聴く音楽に限って言えば、アングラだったり、尖ってたりするよりも、わたしは単純に楽しく騒げるものが好きみたい。
昨年久しぶりに、こちらはコンサートに近いライブにいっしょに行った帰りに、うっかりしていたら終電を逃し、最寄駅までと拾ったタクシーの車内の中で、恋人が「もっとライブに行きたい!」と逆上気味に取ってくれたチケットは、どう考えても値段以上の価値があった。
なぜだか矢継ぎ早に昔のことを思い出し、終演後の串カツ屋さんでは、串を食べるときには外せないメニューであるれんこんや、これは串でなくても外せない鶏を追加しつつ、恋人同士というよりは、友達同士のような会話を深夜までしてしまった。
「ライブハウスの一番後ろで、アルコールを舐めながら、ステージと客席を眺めているのが好き」という恋人の横で、わたしもジンジャーエールを舐めつつ味わったライブハウスは、ちゃんと元気になれるいい音楽体験になった。
串カツのソースを、上手にくぐらせられる、ちょうどいい思い切りも生まれる。
ところで、聴いている間ずっと、すぐ後ろで作られていたラム&コークの、夢のように甘い匂いと、現実的な炭酸のしゅわしゅわした音が心地よく、そのちょうどよく浮世離れした味が、わたしのライブハウスのイメージになりつつある。
その時、味わったわけでもないのに、どうしたって、音楽に関しては、体まるごとで受け止めないことには気が済まないらしい。
はじめての本格的なライブハウスは、多分に、ラム&コーク的な体験だった。