ときどき晴れのくもり空

いつか想像してた未来と今が少し違っていたって

チキンスープはトマト色

だいぶお正月気分も抜けてきたところで、ようやく少し振り返ろうかな、という気持ちの余裕が出て来た。

簡易的な大掃除である程度きれいにしたはずなのに、なんで1週間でこんな状態に!? と思うくらい、部屋は雑然と散らかっている。

重い腰を上げて片付け、洗濯物を取り込み、すべてあるべき場所に戻したところで、ざっと半年ぶりくらいにミルクを泡立てたコーヒーを淹れて、ソファに腰かけている。

ちょうど表の明かりが肩口から差し込み、家の中で、電気をつけなくても本が読める場所がこの背の低いソファなのだけれど、模様替えで今の場所に設置されてから半年、クッション以上の重みを受け止めたことはほぼないはずだ。

模様替えをしたときは、ここで休日の朝、豆から挽いたコーヒーを飲みながら、厚ぼったい単行本なんかを読んだら、どんなにかしあわせだろう! とわくわくしていたのに、ちょっと反省している。

 

今年の年末年始も、例年通り、実家に帰って過ごした。たっぷりと1週間。でも、新年2杯目のコーヒーは、上京してきてからはじめて、東京で飲んだ。

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帰省は、のんびりとしたものだった。

毎日何をするでもなく、学生の時の長い休みの内の単なる1週間のように、有意義な7日を過ごそうという決意もなく、ただゆったりと日付の感覚もなくなるままに過ごした、という感じ。

もう10年弱、そういう生活を続けているので、それ以外の過ごし方を考えてみる時期も過ぎてしまった。

例えば大学にも東京にも慣れてきたころ、「他のお休みだって長い間帰ってるんだから、大晦日と元旦だけ帰ればいいでしょ」なんて、遅れてきた反抗期のようなことを思った時期もあったけれど、それももはや昔のことのよう。

1年の間に、二桁の日数、実家に帰れればいい方……というここ数年間は、こんなにまとまったお休みがあるときくらいは、ということで、年末年始はカレンダー通りびったり帰っていた年もあった。

 

ただ、今年はいろいろときっかけや用事があって、特に秋口以降、何回か弾丸ではあるけれど実家に帰ったこともあり、ぽけっとしていたら、うっかり帰りの飛行機を買いそびれた(!)という外的要因も重なって、三が日の真ん中あたりには、もう東京に。

正確にはその頃いたのは成田で、つまり、羽田行きの便が満席で取れなかったのである。羽田はよく利用するけれど、成田は夏の旅行ぶり。

海外旅行帰りの大きなトランクを持った人々の間を、小さなトランクどころか少し大きなくったりとした皮のバッグひとつで、高いヒールでひょいひょいとすり抜けていく。

お正月に、ほぼ体一つで親しみのない場所を歩いていることが、「さみしい」というよりはとても身軽で驚いた。

どこでも生きていける、と思うし、どうやったって生きていける、という気がしてわたしは荷物を持たずに空港にいるのが好きだけれど、さすがにこんな機会はそうそうなくて、新年にふわさしい清々しさだった。

 

おなかが空いたなあと思って、最初の東京ごはんは何にしよう、と思って気づく。まだお正月なのだ。駅を一歩出ると、人こそ新年会やら初売りやらでぱらぱらといるものの、ちょっと行きたいなと思っていたお店は、もちろん軒並みお正月休み。

慌てて駅まで引き返して、ほうっと一息つけるスープを買って帰ることにした。

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Soup Stock TOKYO*1でも、コーヒーショップやなんやらといっしょで、いつもいつも同じメニューばかり頼んでしまうのだけれど、そのときは、表にぽんっと大きく貼ってあったメニューが懐かしくて、はじめて違うものを頼んだ。

野菜と鶏肉のトマトシチュー。

正確には、わたしが食べたかったのは、“チキンのトマト煮込み”で、もう少しスープっぽくないもの。

というのも、からあげやら、おっきなハンバーグやら、豚肉のコーラ煮やら、ピーマンの肉詰めやら、歴代の母(ときどき父)の作る好きなお肉料理ベスト1を最終的に凌いで、「何が食べたい?」と訊かれたら、いつもこのメニューを答えていた。

ぶつぎりにしたチキン、たくさんのキノコたち、半分形が見えなくなったもっとたくさんのたまねぎ、あればパプリカ、そして香りづけのガーリック。

トマトの酸味があまり好きではないということで、実は、母はそれほど好きなメニューではなかったようなのだけれど、それを高校2年生くらいのときに知った時、「それは悪いことをした」と反省するくらいにはしつこくリクエストした。

上京してすぐ、毎日好きなものだけ食べてもいいのだ、と気づいたときも、3日連続で自分で作って食べたり。

 

というわけで、それなり以上には思い入れのあるメニューなのだけれど、そういえば、ここ4~5年、ほとんど食べなかったなあと、お正月、ほとんどお客さんのいない店頭のパネルを眺めて、ほんとうに不意に思い出した。

突然食べなくなった理由が、明確にあるわけではない。

作るのがめんどくさいからというわけでは、ないと思う。チキンを使った料理はここ数年だって何回もしているし、どう考えても圧倒的に気合のいる親子丼だって、何回かは作った。

にも関わらず、基本的には最後煮込めばいいだけの好物と、どうしてこうも疎遠でいられたんだろうと考えると、たぶん、いい時代の食べ物だからだなあ、という気がする。

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何の不安もなく“育まれて”いたころ、そして、家を出て、少し不安はありながらも、毎日どんどん新しい楽しいことしか出てこなくて、明日は今日よりもずっと楽しい! とはじめて心の底から思える大学生のはじめに、繰り返し繰り返し食卓に登場したメニュー。

ノスタルジックになる、というよりは、どうにも「安定」の味で、少しでも焦ったり不安だったりすると、ちっとも食べたいという気持ちが生まれないのだった。

なんというか、心からおいしいと思えなさそうというか、負けて安心な家に帰る、という気持ちになるというか。

はじめて東京でも過ごしたお正月、ぶらりと立ち寄ったスープ屋さんで、「食べたいな、懐かしい」「なんであんなに好きだったのに、すっかり忘れていたんだろう」という感想が、まるで軽い記憶喪失だったかのように自然に流れ出した。

よくわからないけれど、それはたぶん、ようやくわたしが“働いている自分”というのに慣れ、今の場所でもまた安らげるのだと思い始めた証拠なのかもしれない。