ときどき晴れのくもり空

いつか想像してた未来と今が少し違っていたって

14歳のパレット

休日。久しぶりに思える、とてものんびりとした週末。

土曜日は、急に思い立って、家中の積読を整理してみた。買ったことを忘れているものがぽろっと出てきたりして、反省しきり。人生初、買ったのを忘れてもう1冊買うという悪行も働いていた……。

読書のお供には、コーヒーを。久々に豆から挽いたコーヒーを飲むと、休日を飲み下しているようで、体がしあわせにほぐれて心地いい。

ブラックコーヒーを飲むと、お休みだなあと思う。コーヒーショップで買うのはもっぱらミルクやらシロップやらでお化粧をされたラテばかりなので、わたしがブラックを飲むのは、家だけだ。

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週末に向けて食材も久々に調達したので、冷蔵庫の中が充実しているのもうれしい。

金曜日の夜にしたお鍋の残りで、朝から雑炊を炊いたりしていると、ここが東京で、自分が働いているのを忘れてしまいそうだ。もうすぐ師走がやってくるとは思えない穏やかな朝に、時間が眠たげに流れていく。


日曜日。昨日一日、本を読んだりTVを観たりで、まったりとした時間を過ごしたせいか、今朝の目覚めは随分すっきりとしたもの。*1

手帳を新調していそいそと予定を書きうつしたり、年の瀬感を出してみるものの、やはりどこかねぼけた気分。

恋人は隣で、絵はがきにするための絵を描いている。アクリル絵の具の匂いが懐かしい。

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美術の時間というのは、なぜか、いつも午後のいちばん眠たげな時限にあった。

わたしは絵に関してはとんと才能がなく、選択授業になった中学3年生の段階で、音楽を選んでしまったのだけれど、他の授業と違って、ばらばらと好きな場所に座れる自由さが大人っぽくて好きだったのは覚えている。

中学になると、机を全部どけてしまって、めいめい椅子とイーゼルだけ、という授業も増えた。

そればかりでなく、「水入れを洗いに行ってきまーす」とさえ言えば、友達と連れ立って堂々と(!)授業時間中に、教室を出ることが許されるという特権付き。楽しくないわけがなかった。

 

美術の教室は本棟のいちばん端にあり、いちばん近い水場でも、教室からは見えない廊下の先にあった。

大きく窓の取られた廊下を歩きながら、他の授業ならばメモを回してするような話をすると、クラス替えの直後でも急速に距離が縮まる効果もあった気がする。

 

学校と言うのは、どこでもそういうものかもしれないけれど、わたしの通っていた中学校はやたらと窓の多い設計になっていて、晴れた日に、誰もいない廊下を歩くのは気持ちよかった。

ぺたぺたとした上履きの音が、のんびりと響いて、そこにちゃぷんという水の揺れる音が混じる。閉じた教室のドアからは、それぞれ英語やら古典やらを読み上げる声が漏れ聞こえてきて、あの瞬間だけ、学生であるということをふっと外側から見て「しあわせだなあ」と思えたから不思議だ。

授業中に、正々堂々と廊下を歩くなんて美術のときくらいで、だから、そこにいるのだけれど、そこにいない、なんだかナレーターのような気持だった。

物語を見ているように自分たちのいる「今」を外側から眺める、行って帰っての10分間。

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辿り着いた水洗い場にも、ちょうど顔の高さに窓があった。

夏でも冬でも清潔に冷たい水に、それぞれついつい使いがちな色に染まったバケツを洗わせ、まぶたに太陽の光を受けていると、14歳の午後が永遠に続くような気がした。

 

恋人の絵葉書は着々と仕上がり、もはや2枚目を乾かしている。

その姿が、あんまり楽しそうなので、わたしも道具を借り、十数年ぶりに絵の具を使って落書きをしながら、そんなことを思い出した。

*1:なのに、そんな朝でもなぜか定時までは意固地にベッドにもぐりこんでしまう執念深さが、我ながら笑える。これは夕方家にいるときも同じで、別に眠くもなんともないのに、「定時になる!」と突然叫んで、半分義務のように寝室に向かうわたしを、ときどき恋人の方はほんとうに声を出して笑っている。