「ひとつでいいです」
花とはずいぶん、縁遠い生活をしてきた。
実家は母が忙しいという理由で、そして、すぐ枯れてしまうと悲しいという理由で、花にはあふれていたけれどすべて造花だったし、学校で毎年あった「ひとり一鉢」という制度では、毎回、夏休みを待たずして枯らした。
一方で、祖母の家に行くと、庭にはいつも季節の花が咲いていた。
たとえば夏休みの宿題の草木染めで使った朝顔、花と実で同じ植物だとわからなかったホオズキ、祖母がいちばん好きだと言っていたありふれたパンジー。
祖母は庭の花を水墨画に描くのも好きで、毎回遊びに行くたびに、わたしと妹はちっとも絵の中の花の名前を当てられずに呆れられていた。結局、祖父母が引っ越して庭が狭い家に変わるまで、一度だって第一声で当てられたことはなかった気がする。
そういうわけで、自分で花瓶というものを買ったこともなかった。
初めて家にやってきた花瓶は、花瓶というには少し面白い作りになっていて、本だらけのわたしの部屋に、違和感なく溶け込むもの。直島のお土産で、ちょうど文庫本1冊と同じような幅と高さをしている。
一輪挿しというところも、とてもささやかで、おおげさでなくて、花がある生活初心者としては、あまり気負いせずにすんで気に入っている。
花のためというよりは、いっそ本の横に汚れた水があるのがいやで、せっせと水も変えるため、切り花だけれど、あっという間に枯らしてしまうということもなく、なんだかやたらと嬉しくて、意味もなく近づいて匂いをかいだりしてしまう。
飾りたくなるのは、やっぱり一輪でぱっと華やぐ花の大きなものが多くて、たぶんそういう基準で、しばしば恋人から支給がある。
ちょうどこの一輪挿しがある真横に全身鏡があり、毎朝必ず目の前に立つ。そのとき、明るい色とふわりと清潔な香りが漂うと、なんだかそれだけで人としてちゃんとしている気分になるのがおかしい。
自分でも買ってみよう、とは思うのだけれど、妙なところで気弱なわたしは、花にくわしいお客さんと店員さんが話し込んでいるのを見ると、ついつい何も買わずに店を後にしてしまう。
あるいは、必要もないのに、5千円で花束を作るとどれくらいですか、なんて訊いて帰ったりしてしまう。
もちろん、さらっと必要なものだけ買い求めればいいのだけれど、なんとなく見栄を張った買い方しかできない場所というのが2つあって、ケーキ屋さんと花屋さんというのは、個人的にはその2大巨頭である。
だから、大きな花束よりも、小さくきゅっと最低限の包装だけが施された一輪の方がうれしいのは、たぶん、それが自分じゃ手に入れられないものだからだと思う。
きちんと日々を楽しむための、なんら過不足ないしあわせとして、ちゃんと手に入れられた“いいもの”という感じがする。わたしはそういう清潔な買い物が苦手で、そういうところがすごいな、といつも思う。
花をもらうたびに、「うれしい」と「いいな」がダブルで押し寄せ、わたしもそういう花の買い方をしてみたいな、とここ半年ほどずっとうずうずしていた。
この間、期せずして有給がもらえたとき、朝から洗濯物を回し、朝ごはんも作り、今日は平日なんだと思うと、なんだかとても幸福な気持ちになったので、これは今日しかないと満を持して歩いて数分のいつも玉砕している花屋さんに向かった。
結果は、一歩前進と言ったところ。
平日の午前11時、いつもにぎわっているお店はのんびりとしており、わたしは唯一のお客さんとしてすぐに「何かお探しですか?」までたどり着けた。
どぎまぎと要望を伝えて、結局、部屋には3本のバラがやってきた。ほんとうは、いちばんきれいなバラを1本と思っていたのだけれど、花束は回避したものの、「他はいかがですか?」にふらふらともう一度冷たく冷やされたショーケースの中を覗いてしまった。
まあでも、と思う。丸3年目記念と思えばいいか。
おまけでつけてくれた4本目のバラには、帰った時に気づいた。ちょうど4本目がきれいに開くころ、付き合って4年目を迎えた。わたしはどちらかというと「あげたがり」だけれど、花に関してはもらう側が性に合っているのかもしれない。