しょっぱいシチュー
今年の冬は、シチューばかり食べていた冬だった。
前の日より少しでも気温が下がると、朝の駅への道で、「今日はシチューだな」と思う。楽なので、遅く帰っても作る意欲がわくし、今年はなにかにつけてシチューを作っていた気がする。
雪の日、通常通り10時手前まで残業して帰ったときに、家で待っていたのもシチューだった。もっと早く帰れるかも、ということでずいぶん早くから煮込まれていたシチューは、ブロッコリーがぐずぐずになってしまっていて、申し訳なくも優しい味がした。
夜の10時、しんしんと降る雪の中で、そうでなくても駅ビルはもうおしまい、スーパーも早めにしまり、ファーストフード店すらぱたぱたとしまっていた中で、ひっそりと灯りをつけていたサブウェイで調達したサンドイッチと共に食べた。
あのとき、借りができた気がして、あの後、学生以来、とんと行かなくなっていたサブウェイに、この数週間ですでに何度か足を運んでいる。
4年に一度の祭典も、シチューを食べながら眺めた。いちばん好きだった選手、というのがあらゆるスポーツで現役引退をしてしまってから久しいけれど、そういう対象がいなければ同じスポーツでも「眺める」ことができるんだなあ、となかなか感慨深い。
インターネットの文字情報を必死に追い、自動更新を待てずリロードをし、でもそのボタンを押すたびにぎゅっと指をきつくクロスした。そういう日々が、遠い昔のようである。
それでも、思いの外、わたしが熱をもって応援していた時代の選手たちが、ソチまで残ってくれていて、そしてもちろん思いもかけず去ってしまった選手たちもたくさんいて、観戦しているとびっくりするくらい涙は流れた。
わたしと同時期にフィギュアスケートを見始めた人にとって、今回のオリンピックは遅れてきたエンディングのようなものだったのじゃないかと思っている。女子に、男子に、ペアに、ダンスに。4年前に覚悟していたfinの文字が、ようやっと、たくさん打たれた気がする。
今回の五輪は、「おめでとう」以上に、「おつかれさま」と「ありがとう」が言いたくなる五輪だった。
シチューを煮込みながら観たいくつかの場面が、きっと4年後にもくっきりと体の中に残っている気がして、4年後の冬にはちょっとシチューは食べたくないなあ、なんて今から思ったりしている。
しょっぱいシチューは、あまり好みじゃない。