ときどき晴れのくもり空

いつか想像してた未来と今が少し違っていたって

さようなら2013年、こんにちは2014年!

新年である。あけましておめでとうございます。

去年はずっと眠らせていたはてなにまた戻ってきたり、はてなブログを書き始めたり、また少しスケートやお芝居を観るようになったりと、少し自分らしい自分に戻ることのできた一年だった。

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特にこのブログは、どうせ3日でまた忘れてしまうんだろうと思っていたけれど、意外にも続いていて、驚いている。

 

それにしても、大晦日の夜、ひとりで1記事目から読み返してみて、しかしきれいさっぱり忘れているものだな、と思った。何があったか、何を思ったか、何を観たか、何を食べたか。そういうことを、読み返すまでそれはもう面白いくらいきれいに忘れていた。おかしいなあ……。

もちろん、すっかり忘れてしまっているわけじゃなくて、たとえば記事のタイトルをみたところで、「ああそうだった」と思い出すのだけれど、これは書き留めていないと、と思う。

書き留めていないと、そのきっかけがないから、きっと大切なことさえずっとずっと「思い出せない」ままになってしまう。

楽しいことはたくさんあったはずなのに、「つかれた」「忙しかった」に流されてそれが消えてしまうなんて釈然としない。でも、2012年に限って言うと、非常にその傾向が強くて、幸せな瞬間もたくさんあったはずなのに、iPhoneに入っている写真の日付以外、何をしていたのか、もう上手くわたしには思い出せない。

固有名詞の箇条書きでいいのだ、というようなことを言っていたのは、『アムリタ』の竜一郎だったか、 主人公だったか忘れてしまったけれど*1、つまりまあそれくらいでいいと思えば記すハードルが低くなる。

アムリタ〈上〉 (角川文庫)

アムリタ〈上〉 (角川文庫)

 

この間、恋人がわたしの文章を見て、しみじみと、「桜莉さんはそうだよね」と言った。

たとえば同じ日にあったできごとを日記にしてみると、恋人は時系列に、きちんきちんと何があったか、それぞれの発言、何をしたか、ということを記す。それに対して、わたしはたとえばその日の空気がどうだったとか、履いていた靴のこととか、恋人の着ていた服の色とか、食べたいと思った食べ物の名前とか、そういった細部ばかり書き留める性質だ。

この間はドッグランを観に行ったわけだけれど、たぶん、恋人は「朝、公園に散歩に行ったついでに、ドッグランを観た、そして……」という書き方をしているのに対して、わたしは、「今朝、やたらたくさんのハスキーを見た。ハスキーにもいろいろな色がいて……」とたぶんドッグランという言葉を、下手すると記録し忘れる。

 

これはもう癖だなあ、と思う。

ちゃんとした記録は、いっしょに日々を歩いている人に任せつつ、メモでもいいから、今年も、ひとつひとつ2014年の手ざわりを、ここに残していきたいと思う。

本当に”ひとりごと”なブログですが、今年もよろしくお願いいたします。

*1:もしかしたら、作文の書き方のような『ドラえもん』の学習まんがだったのかも。